p85
「逃げるぞ」
ヴァルターが低く、鋭い声で囁いた。
下士官の視線が彼らの隣に立つ船員に移り、その男が震える指で帳簿を指した
わずかな空白。
二人は弾かれたように背を向けた。
「Стой!」
背後で怒号が響く。
甲板を蹴る軍靴の音。ヴァルターとフリンツは、積み上げられた木箱を蛇行
しながら、船尾へと走った。
海は、すぐそこだった。
吊り下げられた救命艇のロープを、フリンツが斧で叩き切る。
「乗れ!」
傾ぎながら海面へと落ちていくボートへ、二人は重力に身を任せて飛び込んだ。
冷たい飛沫が顔を打つ。
ボートが波に揺られ、二人がオールを掴もうとした瞬間、上から影が差す。
船縁に並んだ兵士たちが、冷徹な眼差しで銃口を向けている。
逃げ場のない、小さな木造の器。
それは海に浮かぶ標的に過ぎなかった。
「待っ――」
フリンツが手を上げた。その言葉は、乾いた銃声にかき消された。
一発、二発。
ヴァルターの視界で、フリンツの胸元に血飛沫が弾ける。
彼は言葉にならない喘ぎを漏らし、そのまま力なく船底へ崩れ落ちた。
「フリンツ!」
ヴァルターが叫び、腰の銃に手を伸ばす。
だが、それより早く、頭上から降り注ぐ無数の弾丸がボートの木板を粉砕し、
身体を貫いた。
熱い。
その感覚さえ、急速に失われていく。
青白い空が遠のき、耳元ではただ、黒海の冷たい波音だけが響いていた。
灰色の空を悠然と舞うカモメが見える。
ヴァルターの意識は、冷たい海水がボートに流れ込んでくるのを感じながら、
深い闇の中へと沈んでいった。
END




