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二人は馬を降り、冷たい風が吹き抜ける岩陰に身を隠した。
周囲を警戒しながら、泥に汚れ、返り血の染みた赤軍の軍服を脱ぎ捨てる。
背嚢から取り出したのは、厚手の野戦灰色の布地――ドイツ国防軍の外套だ。
冷え切った指先でボタンを留め、襟元の記章を整える。
ヴァルターは、栗毛の馬の鼻筋をそっとなでた。
凍てつく空気の中で、馬の吐息だけが温かい。
「……すまない。ここまでよく運んでくれた。あとは、好きに生きろ」
別れを告げるように、その首筋を優しく叩く。
栗毛は一度だけ短くいななき、ヴァルターの外套に鼻を寄せた。
馬を降りた二人は、火煙たなびくノヴォロシースクの街へと続く坂を下った。
市街の外縁に足を踏み入れた途端、爆風が鼓膜を叩いた。迫撃砲弾が付近の民家を直撃し、瓦礫の雨が降り注ぐ。路地裏から飛び出してきたソ連軍の斥候部隊が、
二人を見つけて容赦なく銃弾を浴びせた。
「伏せろ!」
ヴァルターが瓦礫の陰に身を投じたとき、背後で悲鳴のような響きが上がった。
振り返ると、先ほど放した栗毛の一頭が、こちらを追ってきたのか、あるいは混乱に迷い込んだのか、通りの真ん中で立ち尽くしていた。
次の瞬間、乾いた着弾音が連続して響き、馬の巨体が崩れ落ちる。
「……クソッ!」
銃弾が空を切り、フリンツが応戦するが、多勢に無勢。
背後の壁が崩れ、逃げ場を失いかけたその時だった。
「撃て !」
鋭い号令とともに、通りの向こうから猛烈な機銃掃射が浴びせられた。
敵兵が次々と倒れ、残った者は蜘蛛の子を散らすように退却していく。
濛々たる埃の中から現れたのは、迷彩の外被に身を包んだ国防軍の一団だった。
彼らは銃口を向けたまま、慎重に距離を詰めてくる。
「貴様ら、どこの所属だ! なぜこんな場所をうろついている!」
下士官らしき男の怒鳴り声に、フリンツが外套の襟を見せ、身分を明かす。
男は二人の汚れ果てた姿と、その眼に宿る戦慄きを見て、わずかに銃口を下げた。
「……生き残ったか。だが喜ぶのは早いな。ここは今や巨大な墓場だ」
下士官は吐き捨てるように言うと、市街中心部を指差した。
「これより貴様らを第73歩兵師団の指揮下に組み込む。弾薬を拾え。奴らを
ここから叩き出すぞ」
ヴァルターは、泥にまみれた自分の手を見つめる。
逃げ切れるはずなどないと分かっていた。
ここが、ノヴォロシースクの灰色の海が、自分の墓標になるのだろう。
それでも、身体は生存本能という呪縛に操られ、命令に従って重い足を動かしてしまう。
「……了解いたしました。軍曹殿」
ヴァルターは虚ろな瞳で、弾薬箱の取っ手を掴んだ。
勝つためではなく、ただ次の数時間を生き延びるために。
彼は狂気と黒煙が渦巻く市街戦の最前線へと飲み込まれていった。
END




