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「もっと目立たない場所がいい」
ヴァルターは返事を待たず、斜面を駆け下りた。
乾いた土が靴の下で崩れ、遠くの砲声が山肌を震わせるたびに、胸の奥まで低い
振動が伝わってくる。
フリンツは、しぶしぶといった様に手綱を引き、後を追った。
二人は湾の縁を回り込むように進んだ。
風向きが変わるたび、どこかで上がった煙が薄く流れ込み、焦げた匂いが鼻の奥にまとわりつく。
馬が耳を伏せ、蹄の音が不規則になる。
そのたびに、遠くで何かが崩れるような音が反響した。
やがて、丘陵の切れ目から細い獣道が海側へ落ちているのが見えた。
ヴァルターは迷わずその道へ馬を向けた。
斜面の陰に入ると、潮の匂いが急に濃くなる。
岩場に囲まれた小さな入り江が現れ、その奥に船がひっそりと停泊していた。
甲板では数人の男たちが荷を扱っていたが、こちらに気づいて動きを止める。
短く飛び交う外国語らしき声の内容はわからない。
だが、歓迎されていないことだけは、すぐに理解できた。
「……厄介なのを見つけたな」
フリンツが馬上で低くつぶやく。
入り江の空気が、薄い刃のように張りつめた。
船は波を切り、荒れた海面をゆっくりと進んだ。
甲板に括りつけられた二頭の馬がは揺れに合わせて身を強張らせ、蹄がときおり
木板を叩く。
マストには、風にあおられたトルコ国旗がはためいている。
その赤が、灰色の空と海の中でやけに鮮やかに見えた。
船員たちは必要以上に口を開かず、ただ互いに目配せをするだけだった。
積み荷には、分厚い板材と金具で補強された、明らかに漁船には不釣り合いな木箱が混じっている。後ろ暗いものを運んでいるのは明らかだった。
「……中立国の船が、こんな海域で運び屋か」
つぶやくヴァルターにフリンツは肩をすくめる。
「中立国が、当事者双方に物資や情報を融通することはままある。
どちらにも敵視されず、どちらにも必要とされる。こんな場所だからこそ、な」
やがて浅瀬の色が明るくなり、陸風に湿った土の匂いが混じり始める頃、さびれた漁村が視界に現れた。
崩れかけた桟橋と、傾いた倉庫が数軒。
人影はまばらで、風に揺れる網だけがかすかな音を立てている。
船が横付けされると、岸から一人の男が歩み寄ってきた。
帳簿を抱え、周囲を気にするように視線を走らせている。
この村が“表の港”ではないことは、その落ち着かない仕草だけで十分に分かった。
男は口を開きかけ、ふと船長の背後に目をやった。
見慣れない二人の男。
恰好は他の乗組員と大差ないが、手に小銃を携えている。
男の表情がにわかに固まった。
フリンツが一歩前に出て、低く言った。
「İçeride konuşalım」
船主は短く息を呑み、周囲を見回したのち、近くの小屋を顎で示した。
小屋の中は薄暗く、潮と油の匂いが混ざっていた。
木の机と椅子が二つ。
壁には古い地図が貼られている。
船主は机の向こうに立ち、腕を組んだ。
「Kim… siz?」
フリンツが片言のトルコ語でゆっくりと告げる。
「Biz… sadece yolcuyuz. Sizin işinize karışmak istemiyoruz.
Sadece… yol üstüyse Sivastopol’e götürmenizi istiyoruz. Paramız yok ama… iki atımız var」
船主は眉をひそめ、短く笑った。
「Sivastopol mü? Sen deli misin? Biz korsan değiliz 」
その嘲りが消える前に、フリンツがホルスターの革をわずかに押した。
船主の目が一瞬だけそこに止まり、表情が引き締まる。
「……Bizim de canımız tehlikede. En fazla Kerç’e kadar gideriz」
フリンツは短く頷いた。
「交渉成立だ」
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