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村を離れると、景色はすぐに荒涼とした草原へ変わった。
雪は踏みしめるたびに土の色がのぞき、地平の向こうから吹きつける風は容赦なく体温を奪っていく。
「……どこか、安全な街はあるのか」
ヴァルターは前を行くフリンツに声をかけた。
フリンツは軽く手綱を引き、短く考えてから答えた。
「ロストフだ。司令部の連絡所から、船の手配もできる」
ロストフ。
ドン川の河港都市で、アゾフ海の玄関口。
鉄道も集まる交通の要衝で、まだこちらの占領下にある、はずだ。
橋へ向かう街道 に入ったところで、周囲の様子が変わった。
泥に深く刻まれた轍の間に、散乱した荷物が点々と落ちている。
破れた背嚢、折れた銃床、血まみれの軍靴、顔をうずめた屍。
ヴァルターは無言で、散乱した荷物の向こうに続く乱れた轍を見つめる。
撤退がすでに隊列としての形を保っていないことは、疑いなかった。
川沿いの丘を回り込んだ瞬間、二人は同時に馬を止めた。
橋がない。
中央が崩れ落ち、鉄骨が川面に突き刺さるように傾いている。
増水した流れが、崩れた橋脚にぶつかって渦を巻いていた。
対岸には黒焦げの車両が転がり、兵士の姿はどこにもない。
フリンツはしばらく川岸に立ち、流れを見つめた。
風が外套を揺らし、表情には迷いと苛立ちが交互に浮かんでいる。
「……ロストフ行きは中止だ。黒海側に出るぞ」
ヴァルターは黙ってうなずいた。
この慌てようでは、ロストフも長くはないかもしれない。
二人は馬を返し、南へ抜ける道をたどり始めた。
川沿いの低地を離れるにつれ足元の泥は次第に乾き、南へ向かってゆるやかに落ち込む丘陵の斜面があらわれた。冬枯れの草原が広がり、ところどころに放棄された荷車の車輪や、泥に埋もれた弾薬箱が転がっている。
湿り気を含んだ重い風が馬のたてがみを揺らし、雲の切れ間から差す光が平たい
明るさを帯びる頃、二人は小さな村に差しかかった。
家々の窓は板で打ち付けられ、扉はこじ開けられたまま風に揺れている。
入り口の、葉を落としたポプラの木に、裸のドイツ兵が数人吊るされていた。
両手を括られ、脱臼したまま放置された肩の付け根は、濁った緑から黄色に変色している。
息があるのか、泡を吹きながらうわ言のように呟く兵士を、自転車に乗った子供が見上げていた。
ヴァルターは息を吸おうとして、胸の奥が固くなった。
空気が止まり、周囲の音が遠のいて、自分だけが薄い膜の向こうに置き去りになるような感覚だけが残った。
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