p75 完全日本語版
門の前に立ったフリンツは、制服の襟を正しながら門番に声をかけた。
「ドン方面司令部からの緊急連絡だ。指揮官を呼べ」
門番は一瞬動きを止め、無線機に手を伸ばしかけた。
「無線は使うな。機密漏洩で処罰されたくないならな」
フリンツが低く言い放つと、門番は顔を強張らせ、敬礼して奥へ駆けていった。
やがて、雪を踏みしめる足音とともに、一人の将校が現れた。
赤地に金星の襟章。階級は中尉か。
顔には夜通しの緊張が刻まれ、目の奥に疲労と警戒が滲んでいた。
「……ご用件は?」
フリンツが無言で差し出した身分証を受け取ると、中尉は確認しながら封筒の赤い印章に目を留める。
「ドン方面からの極秘任務だ。詳細はここでは話せない。
内密に指揮所へ案内してもらいたい」
中尉はしばらくフリンツの顔を見つめていたが、やがて短く頷いた。
案内されたのは村の中央にある大きな建物だった。外壁は砲煙で黒ずみ、窓には
板が打ち付けられていた。かつての村長の家か、役場だったのかは判然としない。
中は食堂を転用したような空間で、粗末なテーブルの上には地図が広げられ、数人の将校が囲んでいた。空気は湿り、灯油と冷えた煮豆の残り香が混ざっていた。
フリンツが一歩前に出て尋ねる。
「戦況は」
地図の端に立っていた副官らしき男が、疲れた顔で答えた。
「敵は既に対岸まで展開し、我方の前線はじりじりと後退中です。
川の渡河点が危険です」
別の下士官が不安げに口を開いた。
「兵たちの敢闘精神は横溢していますが、もし市街のドイツ軍が押し出て、
挟撃される形になれば、どうなるか……」
「心配は無用だ」
フリンツは全員の視線を受け止めたあと、打ち合わせの通り、静かに言った。
「現在第2親衛軍が南から移動中だ。戦車軍団と連携して川沿いの突破口を塞ぐ。
さらに別の親衛戦車軍団が背後から回り込み、敵の突出部を切り離す」
将校たちは顔を見合わせた。
期待と疑念が入り混じった空気が、静かに広がるのが感じられた。
「増援の成否は、我々の速やかな敵情報告にかかっている。
故に、可能な限り前線を網羅できる高所に案内してほしい」
副官は一瞬ためらう様子を見せたが、フリンツの口調に押されるように
若い兵士に目配せした。
「案内しろ。南の丘の監視壕だ」
フリンツとヴァルターは兵士に導かれ、村の外れを抜けて雪に覆われたなだらかな丘を登った。風は冷たく、雪は膝下まで積もっていた。
丘の上には粗末な観測壕があり、土嚢と木材で組まれた壁の隙間から川の向こうまで見渡せた。
やがて遠くに黒い煙が立ちのぼり、断続的な銃声が風に乗って届いてくる。
双眼鏡を覗いたヴァルターの目に、ドイツ軍の車列が雪原を押し進む姿が映った。
「始まったな……」
リンツは双眼鏡を握り締め、息を呑んだ。
雪原を切り裂くように戦車列が前へと押し出し、履帯が軋むたびに地面が沈む。
先頭の装甲が塹壕の縁を打ち砕き、ソ連陣地は次々と後退を余儀なくされて崩れていく。
歩兵が慌てて散開し、号令は途切れがちで、白煙と粉塵の合間に逃げ惑う人影が小さく見える。銃火が断続的に追い立てるように鳴り、雪に残る足跡は後退の方向へと延びていった。
ドイツ軍の前進は勢いを増し、押し返される側の防線を確実に浸食している。
「いいぞ、すぐに下へ――」
身を乗り出すフリンツの肩を、ヴァルターが引き戻した。
「待て。見ろ」
その指差す先、川の奥から新たな部隊が現れた。雪を蹴って進む戦車の列、赤い星章のついた装甲車、そして歩兵の波。
「……まさか、本当に来たのか」
フリンツが呟いた。
ソ連側の増援だった。第2親衛軍か、それとも別の部隊かは分からない。
だが、確かに増援は現実になっていた。
ドイツ軍は前進を止め、やがて後退を始めた。
砲声が遠ざかり、煙の向こうに車列が引いていく。
フリンツが立ち上がろうとするのを、ヴァルターが再び制した。
「やめろ。今は動くな。ここで目立てば、どちらに撃たれるか分からん」
そのとき、二人に向かって案内役の若い兵士が雪を蹴って駆け寄ってきた。
顔は紅潮し、息は白く、目には涙が浮かんでいる。
「あなた方が呼んでくれたんですね!援軍を!本当に来た!あの戦車の列!」
兵士はフリンツの肩を掴み、感極まったように抱きついた。
「俺たち、もう終わりかと思ってたんです……でも、あなた方が来てから
流れが変わった。助かったんだ、俺たち……」
フリンツは一瞬硬直したが、すぐに笑顔を作って肩を叩いた。
「すまないが、我々には任務がある。いずれまた会おう」
兵士は名残惜しそうに敬礼し、仲間のもとへと駆けていった。
雪を踏む足音が、まだ遠くで鳴る銃声にかき消されていく。
ヴァルター達はそのまま村の出口へ歩き出す。建物の窓や戸口から兵士たちが次々と顔を出し、前線の方角を指差す者もいれば、帽子を脱いで天を仰ぐ者もいた。
雪は止んでいたが、空はまだ鉛色に曇り、風が頬を刺すように冷たい。
道端には砲撃でえぐれた地面が凍りつき、壊れた荷車が傾いていた。
指揮所の煉瓦壁の陰、砲撃で潰れかけた厩舎の前で、フリンツが立ち止まる。
屋根は中央から折れ、梁が斜めに突き出し、壁の一部は吹き飛んでいた。
黒ずんだ干し草や土嚢が散乱し、兵士たちは負傷者の手当てに追われていた。
入り口には数頭の馬が折り重なって倒れ、すぐそばに脚を引きずり、白い息を吐きながら、苦しげに首を振っている。一方、奥の柱に繋がれていた二頭は慌ただしく鼻を鳴らしていた。
毛並みは泥と雪に塗れ、筋肉は震えているが、四肢はかろうじて健やかに見えた。
フリンツは足元の瓦礫を踏み越え、慎重に近づいた。
鼻面に手を伸ばすと、栗毛の方が短く息を鳴らしたが、逃げようとはしなかった。
「こっちの二頭はいける」
フリンツは、柱の手綱を解きながら言った。
「南の林を抜ければ、増援部隊の進路に出られる。今ならまだ間に合う」
ヴァルターは馬小屋の扉に手をかけたまま、外に視線を向ける。
膝をついて止血帯を巻く者、担架を探して走る者、呻き声に顔をしかめる者。
誰もこちらに注意を払う余裕はないようだ。
風が吹き抜け、馬のたてがみが揺れた。
- フリンツに賛同する→P.76
-合流はあきらめ、馬でこの場から逃げるよう説得する→P.77
-隠した自動車のところまで戻ろうと言う→P.78




