p60 完全日本語版
「……誰なら検問を抜けられる?」
ヴァルターの問いに、フリンツが顎をしゃくり、窓の外を示した。
黒い革の外套をまとい、手帳を片手に兵士を叱責している男がいる。
「あれは?」
「NKVD、泣く子も黙る人民委員さ」
フリンツは苦い笑みを浮かべた。
「兵士も将校も、奴らの前じゃ逆らえない。検問を通るには、うってつけだ」
ヴァルターはしばし黙り、やがて吐き出すように言った。
「連れ出す方法は?」
フリンツは背嚢から出した書類を、ヴァルターの前に広げた。
「いい手がある」
「同志委員! お見せしたいものが」
フリンツの声に、黒い外套の男は足を止めた。
褪んだカーキの制服の、襟と肩章には濃赤の縁取りが走っている。
護衛に挟まれたまま冷たい視線を投げる男に、フリンツは一枚の紙を差し出した。
「詳しい内容はわかりかねましたが、しかるべき方のお目にかけるべきと考え、
憚りながら声を掛けさせて頂きました」
紙面に目を走らせる内、男の顔色が変わっていった。
中身は、南西からの救援部隊と呼応したドイツ第6軍が、包囲された市街からの
突破脱出をはかる作戦計画書。
既に実行の見込みは消えたものの、司令部の丸印がついた本物の機密書類だ。
「……どこでこれを?」
「ここから西へ三キロほどの森で、墜落したドイツ軍機を発見しました。
これはその付近に散乱していたものの一部で、他にも書類が残っています。
ご確認いただければ」
人民委員は護衛に目をやり、短く頷いた。
「案内しろ」
建物の影から、キューベルワーゲンに似た軍用車が押し出されてきた。
角ばったボンネットとむき出しの骨組み、幌を外した車体の前面には縦に走る格子と丸いライトが並んでいる。
外套を翻し、後部座席に乗り込む人民委員の左右に、護衛二人が腰を下ろす。
運転席にはフリンツ、助手席にはヴァルターが座った。
車が検問所へと近づくと、火事騒ぎの余韻か、兵士たちが慌ただしく通行を制止
していた。
人民委員が赤革の身分証を掲げ、怒声を飛ばす。
「右へ寄れ! ここから先は地雷原だ。線路沿いを抜けろ!」
兵士たちは即座に敬礼し、遮断棒を上げた。
車はそのまま検問を抜け、戦場の悪路へと滑り込む。
数百メートルも行くと、両脇には焼け焦げた木々が並び、地面には砲撃で抉れた
穴や散乱する枝が影を落としていた。
後部座席の護衛の一人が地図を広げ、運転席に声を張る。
Прижмись вправо! Дальше впереди минное поле」
フリンツはハンドルを握りながら短く答えるが、ヴァルターにやり取りの中身は
分からない。
注視していたのは、後部座席の三人の動きだった。
銃を構えていた肩が下がり、警戒の糸が緩む。
その一瞬を逃さず、ヴァルターは運転席に視線を送った。
フリンツがわずかにうなずく。
次の瞬間、ハンドルが大きく切られ、前輪が道端の切り株に勢いよくぶつかった。
車体が大きく跳ね上がり、三人の身体が前の背もたれに激しく叩きつけられた。
衝撃に備え、フロントガラスの枠を掴んでいた両手で、ヴァルターは尻の下から
拳銃を引き抜き、硬直した護衛に突きつける。
乾いた銃声が連続して轟き、至近距離から放たれた弾丸が頭と喉を撃ち抜いた。
二人は呻き声を上げる間もなく崩れ落ち、車内には硝煙の匂いが充満する。
人民委員は額から血を流し、ぐったりと座席に沈み込んでいた。
意識はなく、かすかな呼吸だけが生きている証を示している。
人民委員はこのまま、護衛の死体を先に処理する→P.66
人民委員を起こして、処理を手伝わせる→P.69




