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ヴァルターは梯子を静かに登り、頭上の鉄蓋に手をかけた。
錆びついた取っ手を握り、ほんのわずかにずらす。
「ギ……」と小さく鳴ったが、それ以上は音を立てないようそっと押し上げた。
冷たい外気が流れ込み、夜明け前の薄明かりが縦穴を照らす。
灰色の空の下、崩れた建物の影に人影が立っているのが見えた。
軍服を着た見張りが一人、銃を肩にかけ、瓦礫の向こうを警戒している。
慎重に蓋を閉じながら、ヴァルターは声を落として言った。
「ロシア語はできるか?」
フリンツの合図で、ヴァルターは乾いた材木に重ねた黒い紙に、火をつけた。
炎はすぐに黒煙を吐き出し、もうもうとした煙が縦穴を昇っていく。
煙が鉄蓋の隙間に届いたところで、フリンツが蓋を押し上げ、外に叫んだ。
「Пожар!」
声に応じて、周囲の兵士たちが慌ただしく駆け寄ってきた。
何人かが蓋の周囲に集まり、煙にむせながらもフリンツや後から続いたヴァルターに手をとって、地上へ引き上げる。
別の兵士たちが怒鳴り合いながら、近くの地下口へ走った。
怒声と足音が交錯するなか、二人は自然な足取りで近くの建物の影へと紛れ込む。
背後では、遠くの市街地に向けて砲撃が始まったらしく、
鈍い発射音と、数秒遅れて響く爆発の衝撃が空気を震わせた。
瓦礫の隙間から立ち上る黒煙が、灰色の空に溶けていく。
建物の奥に身を潜めながら、フリンツが奪った赤軍兵士の軍隊手帳を開いた。
煤で汚れたページをめくり、文字を目で追うと、低く読み上げる。
「第112狙撃兵連隊。タラス・ドロホヴィチ。階級は二等兵」
ヴァルターが、自分の外套の内ポケットからもう一冊の手帳を取り出す。
フリンツはそれを受け取り、ページをめくる。
「こちらは……第87迫撃砲中隊。リュボフ・マリチェンコ。階級は一等兵」
フリンツは二冊の手帳を見比べ、眉をひそめた。
「……どちらも一般兵だな。通行証も特別任務の記録もない。
部隊章や任務内容を照合されれば、それまでだ」
ヴァルターは窓の隙間から外をうかがい、唇を噛んだ。
「これだけじゃ、陣地の外に出られないということか」
フリンツは手帳を閉じ、声を潜める。
「ああ。検問を抜けるには、他にとっかかりが要る……」
- 通行所を持っている人間を探す →P.60
- 病人のふりをする →P.63
- 後方に移動する部隊に紛れる →P.65




