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ほどなくして、兵士たちの笑い声と、瓶のぶつかる乾いた音が響き始めた。
宴会が始まったのだ。
先ほどまでとは打って変わり、部屋の空気は緩みきっている。
頃合いを見計らって、ヴァルターは両手をしばられたまま、足をもじもじと
動かし始める。
それを合図にソ連兵が、通訳役の兵士に声をかけた。
短いやり取りのあと、通訳が軍曹へ向き直る。
「隊長、奴が……もよおしているそうですが、ここでさせますか?」
部屋に短い沈黙が落ちた。
軍曹は酒瓶を手に、ちらりとヴァルターを見たあと、低い声で通訳に命じる。
「マルク、ついて行ってやれ」
「……なんで俺が」
通訳は顔をしかめたが、やがて観念したように立ち上がり、
「早くしろ」と、銃でヴァルターの背中をつついた。
廊下は壁が崩れ、外気が入り込んで冷え込んでいた。
瓦礫が散らばり、足を踏み出すたびに砂利がかすかに音を立てる。
「この辺でいいだろう」
そう言って、背中を小突くマルクに、ヴァルターは「あー、あー」と縛られた両手を胸の前に掲げる。
「……マジかよ」
マルクは心底うんざりしたようにため息をつき、しゃがみ込んだ。
手袋越しにヴァルターのズボンのボタンへ指を伸ばす。
が、すぐに首を振ると、ロープへ手を伸ばし結び目をほどいた。
「ほら。さっさと済ま」
言い終わる前に、ヴァルターは素早く背後へ滑り込み、頸にロープを回す。
とっさに宙を掻いたマルクの手が、銃に戻るより早く、背中に乗せた膝に
全体重でのしかかる。
ベギッ、と鈍く湿った音が鳴った。
水の入った革袋のように、ぐらぐらと揺れる首を見て、ヴァルターは生まれた
ばかりの弟を抱かされたときの、鉄の臭いを思い出した。
脱力した身体をそっと瓦礫の廊下に横たえ、震える指で発煙筒を取り出す。
摩擦板を引くと、赤い火点が灯り、煙が噴き出し始めた。
外へ飛び出したヴァルターは、建物の外壁の影に身を潜めた。
自分の心臓の音が、耳元で鐘のようにうるさく響く。
数秒、あるいは数十分にも感じられる静寂。
遠くで鳥の声さえ聞こえそうなほど、世界は一時的に静まり返った。
空を見上げる。
赤い煙の先にある、白濁した灰色の地平線。
ふっと、空気が震えた。
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