p53
ヴァルターの手首には、ロープが巻かれていた。
だが、結び目の位置が甘い。新兵の仕事だ。
何度か手首をひねり、指先で結び目を探る。
皮膚が擦れ、痛みが走るなか、ロープは少しずつ、確実に緩んでいった。
寒がる見張りに、ソ連兵が話しかける。
その一瞬の隙に、両手を引き抜き立ち上がったヴァルターは、ロープを見張りの
頸に巻きつけ、背後から一気に引き絞った。
兵士はもがき、銃を取り落とす。
ヴァルターは歯を食いしばり、声を殺して締め上げた。
やがて、兵士の身体が崩れ落ちる。
ソ連兵が目を見開いたまま立ち尽くしている。
ヴァルターは手で「静かに」と合図し、見張りの銃を拾い上げると、足音を殺して部屋を出た。
廊下の先、地下室の扉がわずかに開いている。
中からは笑い声と瓶のぶつかる音が漏れていた。
ヴァルターは扉の前に立ち、一気にそれを引き閉める。
重い音が響き、金属の閂を下ろす。
誰かが叫び、すぐに扉を叩く音が始まった。
ヴァルターとソ連兵は、二人がかりで手近にあったテーブルをひっくり返す。
脚を蹴り折り、天板ごと扉の前に押しつける。
「煙だ、煙を!」
叫びながら、ヴァルターは身振りで発煙筒を示し、ソ連兵に向かって合図した。
ソ連兵はすぐに理解し、懐から赤い筒を取り出す。
キャップを外し、摩擦板を引く。
「シュッ」
乾いた点火音が部屋に響く。
筒の先端が赤く光り、湿った破裂音とともに煙が噴き出し始めた。
ヴァルターは体重を乗せ、覆いかぶさるようにテーブルを押さえつける。
中からの衝撃が何度も伝わってくる。
「さがってろ!」
やがて怒声と共に、乾いた破裂音が鼓膜を震わせる。
厚い木扉とテーブルを貫き、モーゼル弾がヴァルターの胸を裂いた。
「……ぁ……」
信じられないほど熱い衝撃が肺を焼き、視界が急激にセピア色へ染まっていく。
崩れ落ちる身体。
扉を抑える力が失われ、内側からの体当たりによってベッドが大きく揺らぐ。
視界が揺れ、赤い煙が立ちのぼっていくのが見えた。
誰かが何か叫んでいる。だが、もはや聞き取ることはできない。
ただ、遠ざかる音の中で、ヴァルターの意識は静かに沈んでいった。
END




