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ヴァルターは、膝まで埋まる泥を蹴り立て、近くに転がる鉄の塊へと飛び込んだ。
それは、砲塔がひしゃげ、内部から焼け焦げた異臭を放つ戦車の残骸だった。
分厚い圧延鋼板の感触は冷たく、しかし同時に、降り注ぐ死の嵐を遮る唯一の「壁」として、この上ない安心感をヴァルターに与えた。
飛来する8.8cm砲弾が空を切り裂き、周囲の土壌を狂ったように跳ね上げる。
鋭利な破片が鋼鉄の車体に当たってカン、カンと甲高い音を立てて弾かれた。
剥き出しの平原に身を晒していれば、肉体は容易く細切れにされていただろう。
重厚な車体に背を預けた直後、泥を跳ね上げる激しい足音と共に、一人の男が戦車の中へ転がり込んできた。
青い縁取りのついた制帽――人民委員部の督戦隊員だ。
部隊から孤立した男は荒い息をつきながら、手にしたトカレフをヴァルターに
突きつける。
「何を止まっている、ファシストの犬め! さっさと前へ出ろ!」
男の目は恐怖で血走り、狂乱に近い怒声が響く。
車体を叩く砲片が火花を散らし、男は怯えたように身を縮めながらも、ヴァルターを力任せに蹴りつけた。
ヴァルターは泥に塗れた顔を上げ、男を冷ややかに見据える。
至近距離で炸裂した砲弾が、一時的に周囲の音を奪い、視界を土煙で覆った
その瞬間。
ヴァルターは男の腕を払い、引き抜いた銃口をその顎下へと突き立てた。
「……お前が先に行け」
乾いた発砲音が轟音に掻き消され、隊員の体は力なく泥の中へと崩れ落ちる。
ヴァルターは、泥に塗れた履帯の隙間から前方を凝視した。
黒煙の向こうの陣地からは、容赦ないMGの銃声が響き続けている。
突撃で倒れた物言わぬ肉塊に足をかけ、ヴァルターは前へと進んだ。
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