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ヴァルターの思考を支配したのは、愛国心でも忠誠心でもなく、剥き出しの生存本能だった。
まともな武器も援護もなく、泥濘の丘を越えて機関銃陣地へ突撃するなど、自殺
志願のすることだ。
「……冗談じゃない」
将校が号令を下し、怒号とともに「亡霊の群れ」が前方へ動き出した瞬間、ヴァルターは逆方向に身体を反転させた。
爆煙と泥飛沫、そして叫び声。
その混乱に乗じて、トラックの影、あるいは砲弾跡を縫うようにして、来た道を
必死に這い戻る。
泥を噛み、雪混じりの風を切り裂いて、彼は背後の「静寂」へと手を伸ばした。
だが、その視界に、一列に並んだ軍靴の列が飛び込んでくる。
冷徹な視線。外套の襟に光る、青い縁取りの階級章。
そこにいたのは、前進する懲罰兵たちの背中を見張る、NKVDの督戦隊だった。
「どこへ行く、同志」
感情の失せた声が降る。
ヴァルターが口を開きかけた瞬間、複数の銃口が一斉に火を噴いた。
身体にいくつも熱い衝撃が走り、ヴァルターの視界は黒い泥へと沈んでいった。
遠ざかる砲声のなか、彼が最後に聞いたのは、繰り返される通訳の叫びだった。
「一歩でも退く者は、祖国の敵として抹殺する!」
END




