p98
「出ろ」
不意に現れた兵士に腕を掴まれ、ヴァルターは引きずられるように通路へ連れ
出される。行き先は、艦内でもひときわ狭い部屋だった。
天井は低く、金属の壁がすぐ背中に迫り、息をするたび、空気が重く揺れる。
薄い灯りの下、机の前に人影が二つ並んでいた。
逆光になった影の輪郭だけがぼんやり浮かび、表情は判然としない。
「ヴァルター」
フリンツの声だった。
「機関長から何か、聞いていないか?」
「何の話だ」
ヴァルターの返事と同時に、背後で気配が動いた。
繋がれた両手に、手袋越しの指先が触れる。
「もう一度聞く。連中は何を企んでいる?」
「……」
固く閉じていた拳が強引に開かれ、まっすぐに伸ばされた人差し指に、握り込む
圧がかけられる。
「言え」
「知らない……!」
圧迫はさらに強くなり、鋭い痛みが広がる。
関節が逆方向に押し込まれる感覚に、ヴァルターは声を押し殺せなくなった。
その瞬間、自分のものではないような硬い音が、頭蓋骨まで直接響いた。
鉛のような恐怖が腹をせり上がる。
指があるべき節を失い、短く硬い石の棒に挿し替えられた感覚。
動け、と伝える信号は行き場を失い、手の甲を虚しく震わせた。
「ぐっ……!」
気配は淡々と、左右の指に順番に力を加えていく。
激痛が走るたび、力任せに捻じ曲げられペンチで固定されたような、強烈な
違和感が神経を逆なでする。
四度目の圧迫で、ヴァルターの膝が崩れた。
「……もういい」
フリンツの声には、抑えきれない苛立ちが滲んでいた。
言葉と同時に、背後の手がヴァルターの指から離れ、鈍い痛みだけが残る。
「曹長、まだ訊くべきことは――」
副長が低く言いかける。
「私はもういいと言った」
フリンツの声が鋭く遮った。
「しかし、“計画”がわからないままでは、運航に――」
「問題ないでしょう。ヴァルナまで一日足らずだ」
声がぶつかり合い、逆光の影がわずかに揺れた。
刺すように張りつめた空気の中、背後の気配がヴァルターの腕を取り、通路へ
引きずり出す。扉が背後で閉まり、二人の声が薄れていった。
「こっちだ」
歩きながら、若い兵士は周囲を見回し、声を潜めた。
「関節を外しただけだ。動くな」
手錠を外すと、兵士は手際よくヴァルターの指を一つずつ元に戻していく。
痛みは残るが、ほどなく動かせるようにはなった。
「謝るのは後だ。機関長が拘束された。まだ口は割ってない様だが、おかげで艦内は相互監視状態だ。俺たちは動けない」
兵士は手錠の鍵と、折り畳まれた紙片をヴァルターのポケットにねじ込んだ。
「……計画の成否はお前にかかってる。部屋に戻ったら配管の裏を調べろ」
答えようもないまま補機室まで戻ると、待機していた見張りの前で、若い兵士は
ヴァルターを部屋へ放り込んだ。金属音とともに扉が揺れたあと、見張りが足を
ずらしながらぼやく。
「交代はまだか? 朝から立ちっぱなしなんだがな」
若い兵士は肩をすくめ、軽く笑ってみせる。
「当分無理だろうな。副長命令でヴァルナに着くまでは全員出ずっぱりだ」
「冗談だろ……」
天井を仰ぎ、深いため息をつく見張りに気付かれないよう、若い兵士は揺れたままの扉に手を添え、そっと押し戻した。
扉はわずかに角度を変え、相手の視線が部屋の奥まで届かなくなる位置で止まる。
その死角の中で、ヴァルターは息を整え、ポケットに押し込まれた紙片を指先で
探り当てた。一度外した手錠は、前側に付け直されており、折り目をつまんで
引き抜くのは難しくなかった。
震える指で紙を開く。
紙には、急いで書いた殴り書きのような字で「バッテリー室」とあり、
その下に、先ほど見た配管と同じ形状のスケッチが描かれていた。
クランプの部分だけが濃く塗られ、脇に「取り替え」とだけ記されている。
立ち上がり、前に機関長が手を入れていたパイプの後ろを探る。
指先が金属の継ぎ目をなぞり、奥に布の感触を捉えた。
引き出すと、それは油染みのある包みで、ずっしりと重かった。
中には工具がいくつかと、細いワイヤーの束。
ヴァルターは思わず若い兵士を見た。
兵士は一瞬だけ視線を返し、何も言わずに通路の奥へと姿を消す。
あわてて包みを扉の影へ押しやりながら、中身を確かめる。
・スパナ:艦内整備用の短軸型で、柄の部分に滑り止めの刻みがある。
・潤滑油:金属製の細長い容器に入っており、先端は注油針のように細く、
蓋には布で巻いたパッキンが挟まれていた。
・手袋:厚手のゴム製で、内側に布が貼られている。
・金属用のノコギリ:折りたたみ式で、刃は細かく、艦内の限られたスペースでも
使えるように設計されている。
・トルクレンチ:ラチェット式で、柄の根元に目盛りが刻まれていた。
艦内の配管に合わせたサイズで、先端はやや角度がついている。
ヴァルターは息を整えながら、工具を一つずつ手に取って確認した。
機関長が残した意図を、少しずつ読み解こうとするように。
やがて戻ってきた若い兵士は廊下の向こうに目を向けた。
「……前部居住区からの定時連絡は?」
見張りが首を振ると、若い兵士は廊下の奥へと移動する。
受話器を外す音が、狭い通路に小さく響いた。
「やはり反応がない。また壊したのか?」
「壊したのはピウスだろ。俺じゃない」
通路は途中でわずかに折れており、その姿が壁の向こうに消える。
入れ替わるように戻った若い兵士は、通路を塞ぐ形で壁に寄りかかりながら
今だとばかりに顎をふった。
ヴァルターは工具を抱え部屋を出ると、通路の影へ身を沈めるようにして、
隣のバッテリー室へ滑り込んだ。
バッテリー室は、補機室よりさらに空気が重かった。
酸の匂いと金属の湿った匂いが混じり、低い天井に吊られた灯りが、薄く揺れる影を床に落としている。
ヴァルターは足音を殺しながら、紙片に描かれていた配管の位置を探した。
壁際に並ぶ太い管の一本が、紙のスケッチと同じ曲がり方をしている。
近づいて覗き込む。
一見、どれも同じ灰色の金属にしか見えない。
だが、紙に濃く塗られていた“あの部分”――
管を抱えるように取り付けられた金具の裏側に、わずかに赤いものが覗いていた。
塗料だ。
しかも、目立たないように細く、布で拭ったような痕跡が残っている。
(……ここだ)
金具は台座で支えられ、その台座を留めるボルトが二つ。
紙に書かれていた「取り替え」という文字が、頭の中で重く響く。
ヴァルターは工具の包みを床に広げた。
金属の触れ合う小さな音が、やけに大きく聞こえる。
(まずは……台座のボルト)
ヴァルターは手袋をはめ、スパナを手に取った。
だが、手を伸ばしたところで、ふと動きが止まる。
ナットの縁に触れると、ざらりとした感触が返ってくる。
表面が膨れ、色もくすんでいる。
――錆びているようだ。
- スパナで静かに力をかける→P.100
- ノコギリでナットを除去する→P.101
- 潤滑油を差してからスパナを使う→P.102




