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「暗号表を渡す。……エニグマの心臓部、その最新の設定をです」
ハルトマンはヴァルターの言葉に、やがて喉からせり上がるような低い笑いを漏らした。自嘲でも狂気でもなく、どこか憑き物が落ちたような、乾いた笑いだった。
「…… まさか、同じことを考える奴がいるとはな」
艦長は目元を拭い、ヴァルターを射抜くような鋭い視線に戻った。
「実はな、艦内にも似たような提案を具申した連中がいる。
私もこの状況で、賛同するのにやぶさかではないが……問題は下士官たちだ。
兵学校を出たばかりの若造や、いまだに総統への忠誠を捨てきれん石頭が
混じっている。強引に舵を切れば、どうなるかわかったものではない」
艦長はヴァルターに歩み寄る。
「慎重に運ぶ必要がある。針路を変えるための大義名分と、反対派を黙らせるだけの舞台装置がな。……ヴァルター、知恵があれば貸してくれ。貴様のような男の
知恵をな」
「……善処します」
短く答えて敬礼し、ヴァルターは艦長室を後にした。
重い防水扉を閉め、狭い通路に足を踏み出した瞬間、血の気が引いた。
目の前に、フリンツが立っていた。
「……どうしたんだ、こんなところで?」
ヴァルターはかろうじて、声を絞り出した。
胸の奥で跳ねまわる動揺を押し殺し、平静を装うように表情を固める。
「もちろん、艦長に用がある。お前こそどうした? 顔色が悪いぞ」
フリンツの声は平坦だった。
知っているのか、いないのか――判断に踏み込むことすら、今の自分には危うい。
相手の瞳に映るのは、強張った自分の顔ばかりで、奥にあるはずの本心を読み取る余裕など、ヴァルターには欠片も残っていなかった。
「……いや、大丈夫だ」
フリンツは肩をすくめると、ヴァルターの脇をすり抜けて艦長室のノブに手をかける。扉が閉まる音を聞きながら、一瞬のざわつきが胸をよぎった。
何だ……?
落ち着き始めた思考が次第に形を結び、明確な違和感に変わる。
――ノックの音がしていない。
乾いた破裂音が響き、反射的に動いた体が扉を押し開ける。
室内には、背もたれに沈む艦長と、その傍らに立つフリンツ。
銃を握ったまま、こちらへゆっくりと振り返る。
声が喉に貼りつき、かすれた音しか出ない。
フリンツの腕が上がり、銃口がヴァルターを向く。
そのとき、通路の奥から複数の足音が響き、数名の兵士が駆け込んでくる。
「副長殿」
フリンツは銃を構えたまま、中尉の階級章を付けた痩せぎすの男に淡々と告げた。
「ヴァルター・グレーベ伍長は、艦長に対し中立国への亡命を迫り、拒否した艦長を射殺した」
「馬鹿な――!」
否定の言葉より早く副長が手首を振ると、一斉に動いた兵士たちが、ヴァルターの両腕を捻り上げる。抵抗する間もなく、身体は床へ押しつけられた。
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