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艦長は、しばし海図の一点を見つめたまま、深く息を吐いた。
その吐息には、諦念とも、決意ともつかない重さがあった。
低くつぶやくように言い、ようやく顔を上げた。
「……確かに、魅力的な提案にも聞こえる。
だがな、ヴァルター。トルコは我々のような潜水艦の運用体制を持っていない。
引き渡したところで、修理も運用もできず、かといって他所へ気軽に引き渡す
わけにもいかん。
どちらの陣営にも肩入れしたくない国にとっては、扱いに困る代物だ」
艦長は海図を閉じ、静かに立ち上がる。
「だがまあ、本題はそこじゃない」
ヴァルターは、艦長の声の調子が変わったのを感じた。
「他の奴らがそんな理屈で納得すると思うか? ここにいるのは、“艦を売って
生き延びる”などと聞けば、血相を変える連中が大半だ。
お前は潜水艦乗りを理解していない」
口を開きかけたヴァルターを、艦長は手を上げて制し、伝声管の受話器を取った。
「当直、艦長だ。司令室へ。」
金属の反響音が狭い室内に広がり、やがてハッチの向こうで足音が止まる。
ノックの後、扉を開けた士官が敬礼すると、艦長は短く命じた。
「ヴァルターを隔離しろ。ただし、手荒な真似はするな」
「な……何を?」
ヴァルターは思わず声を上げた。
「こんな話を持ち掛けた人間を、放免しておくわけにはいかないだろう」
艦長は最後に一度だけ、ヴァルターを見た。
「当面は倉庫で大人しくしていろ。お互いのためにな」
その目には、わずかな哀惜と、指揮官としての冷徹さが同居していた。
下士官によって手荒に引きずり出されたヴァルターは、艦の後部、予備の魚雷や
物資が詰め込まれた狭い区画に押し込められた。
乱暴に鍵がかけられ、重厚な金属の扉が閉まる。
そこは明かりもなく、時計もない、文字通りの闇の中だった。
ヴァルターは冷たい隔壁に背を預け、聞こえてくるエンジンの微かな振動音だけを頼りに、時間の経過を推測しようとした。
しかし、単調な振動は感覚を麻痺させ、数時間が経ったのか、それともまだ数分
なのかさえ定かではなくなっていく。
不意に、鉄の壁を伝って奇妙な音が響いた。
金属が激しくぶつかり合うような音。続いて、くぐもった叫び声。
さらには、艦内の鉄の構造物に反響して正体の掴めない、乾いた硬い音が数回、
倉庫の扉越しに伝わってきた。
(何が起きている……?)
ヴァルターは扉に駆け寄り、冷たい鉄に耳を押し当てた。
だが、厚い扉の向こう側で起きている騒動の正体を、暗闇の中では判別できない。
やがて、騒音はふっつりと途絶えた。
耳が痛くなるほどの静寂が戻り、ヴァルターが安堵しかけたその時だ。
「……っ、げほっ……!」
突如として、鼻の奥を焼くような強烈な刺激臭が立ち込めた。
暗闇の中で、目と喉に激痛が走る。経験したことのない異臭――
それは、目に見えない鋭い刃となって彼の呼吸器を切り刻み始めた。
何が起きたのか。ヴァルターには知る由もなかった。
彼は逃げ場のない鉄の箱の中で、かきむしるように喉を抑えてのたうち回った。
肺が焼け、視界が急速に濁っていく。意識の輪郭が崩れ、暗闇よりも深い混濁が
彼を飲み込んでいった。
END




