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「現在、東部戦線で何が起きているか。スターリングラードの包囲が完成し、南方軍集団が瓦解しつつあるという事実を、トルコ側は正確に掴んでいないはずです」
ヴァルターは艦長の瞳を覗き込むように言葉を継いだ。
「この情報とソ連軍の次なる攻勢予測。これらを提供すれば、彼らにとって極めて価値のある外交カードになります。彼らもドイツの敗北を予見すれば、勝ち馬に
乗る準備を始める。その手土産を差し出す我々を無下には扱わないでしょう。
情報の鮮度こそが、我々の命を繋ぐパスポートになるんです」
艦長は視線を海図に落としたまま、ふっと息をついた。
その表情から険が消え、どこか憑き物が落ちたような色が浮かぶ。
「……情報の鮮度、か。なるほど、理にはかなっているな」
艦長はゆっくりと腰を浮かせると、ヴァルターの肩にぽんと手を置いた。
その手は先ほどの震えが嘘のように安定している。
ヴァルターは、艦長が自分の提案を呑んだのだと確信し、緊張を解いた。
だが、その直後だった。
ヴァルターの視界が激しく揺れ、背中の壁に叩きつけられた。
反射的に目を見開いた彼の眉間に、冷たく硬い銃口が突きつけられる。
「甘いな、ヴァルター。甘すぎる」
艦長の声は、先ほどまでの迷いが嘘のように氷のように冷徹だった。
「お前が持ってきた程度の情報は、数週間でトルコの情報部でも掴める代物だ。
一艦の乗組員全員の亡命を認めさせ、ベルリンからの追及を突っぱねさせるほどの価値はない。鮮度が命だと言うなら、なおさらだ。こんな腐りかけの土産を持ち込んだところで、我々はただの脱走兵としてドイツへ送り返されるのがオチだ」
ヴァルターが声を出す暇も与えず、艦長は傍らの伝声管の蓋を撥ね飛ばした。
「 至急、艦長室へ衛兵を回せ。――潜入した敗北主義者を拘束する。直ちにだ!」
暗い艦内に、非情な号令が響き渡った。
衛兵によって手荒に引きずり出されたヴァルターは、艦の後部にある狭い物置区画に押し込められた。乱暴に鍵がかけられ、重厚な金属の扉が閉まる。
そこはエンジンの重低音だけが響く、窓も明かりもない闇の世界だった。
時計を奪われたヴァルターにとって、時間はもはや意味をなさない。
数時間が経過したのか、それとも丸一日が過ぎたのか。壁を伝う振動の質が変わるたびに、彼は「浮上したのか」「攻撃を受けているのか」と神経を尖らせたが、
扉の向こう側から答えが返ってくることはなかった。
時折、扉の下の隙間からわずかな食料と水が差し入れられる。
だが、運んでくる兵士は一言も発さず、ヴァルターが問いかけても無機質な足音が遠ざかるだけだった。
淡い期待は、時間の経過とともに絶望へと変わっていった。
艦内に流れる空気は重く、淀み、聞こえてくるのは規律正しく職務をこなす乗組員たちの、感情を排した足音だけだ。
ある時、艦内に鋭い号令が響き、バラストタンクから空気が抜ける凄まじい
音が伝わってきた。
潜航の合図だ。
ヴァルターは暗闇の中で、自らの体がわずかに傾斜するのを感じた。
「……結局、何も変わらないのか」
彼は悟った。艦長は、亡命という「不確かな生」よりも、この鋼鉄の棺桶の中で
義務を全うし、誇りとともに死ぬ「確かな破滅」を選んだのだということを。
暗い部屋の隅で、ヴァルターは膝を抱えて座り込んだ。
この艦が次に浮上した時、そこは中立国トルコの港ではないだろう。
ソ連軍の爆雷に引き裂かれるか、燃料が尽きて黒海の底へ沈むか、あるいは敗戦の象徴としてドイツの港へ引き立てられるか。
ヴァルターはただ、いつ訪れるともしれない最期の瞬間を待ちながら、刻一刻と
酸素が薄まっていくような錯覚に囚われていった。
END




