p90
ヴァルターは、艦長の問いに静かに答えた。
「……考えているのは、ソ連軍への降伏です。
彼らの前線は近い。潜水艦なら接触の機会も――」
そこまで言ったところで、艦長の表情が変わった。
驚きでも怒りでもなく、話の前提が成立していないと判断した顔だった。
ハルトマン大尉は、机の端に置いた指を一度だけ叩いた。
乾いた音が、狭い艦長室に不自然なほど大きく響いた。
「……話にならん」
ヴァルターは反射的に立ち上がろうとしたが、銃口が迷いのない動きでヴァルターの胸元へ向けられる。
「抵抗するな。奴らに降伏すると口にした時点で、お前を自由にしてはおけない」
銃を構えたまま、空いた手で脇の伝声管を開けた。
金属の蓋が軽く鳴り、狭い室内に響く。
「当直、艦長室へ」
金属靴の音が床に響き、潜水艦の低い振動と混じり合って不気味なリズムを刻む。
ほどなく扉が開き、当直の下士官が二人入ってきた。
「こいつを隔離しろ。医務室の後部区画だ。上に報告する」
下士官の手がヴァルターの腕を掴む。
冷たい指の感触が、逃げ場のない現実を突きつけた。
「艦長……私は――」
言いかけた言葉は、艦長の短い一瞥で遮られた。
「もう何も言うな。お前は、ここでは毒にしかならん」
そのまま引きずられるようにして艦長室を出る。
扉が閉まる直前、ヴァルターは最後に艦長の横顔を見た。
そこには怒りも憐れみもなく、ただ冷徹な表情だけがあった。
END




