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雪は音を奪う。
昼と夜の境など、とうに忘れられた。
ヴァルター・グレーベは、崩れたビルの裏、凍った瓦礫の隙間に身を潜めていた。
空は灰色に沈み、煙と霧と死臭が混ざり合って地形の輪郭さえ曖昧になっている。
眼前に広がる光景は、もはや都市ではなかった。
ヴァルターは、ベルリンでは機械工だった。志願しロシアへ渡ったのは今年の春。
部隊はまっすぐ東へ進み、ヴォルガ川の岸辺に広がる都市――スターリングラードを包囲した。
ヒトラーは「獣の名を冠した都市の存在を許してはならない」と言い立て、軍は
市街地へ雪崩れ込むように突入した。敵の粘りは想像を超え、冬が訪れる頃には
包囲していたはずの軍が包囲されていた。
「守る価値などない街だった」――初冬、ヴァルターはそう思っていた。
今では、否応なくこの都市の一部と化している。
鉄とコンクリートが砕け散った大地の上で、兵士たちは凍え、飢え、黙ったまま
死んでいく。補給線は途絶え、救援も来ない。
パウルス元帥は降伏を拒み、ラジオは既に沈黙していた。
ヴァルターの指は手袋の上からでも震えているのがわかった。寒さか、恐怖か。あるいは、罪悪感だ。
2日前の砲撃で部隊は散り散りになり、彼はなんとかこの廃墟に辿り着いた。
誰も生きていないと思っていたが、雪の向こうから足音が近づいてくる。
ヴァルターは反射的に銃を構えた。
「撃つな。味方だ」
声の主はカールだった。
同じ中隊にいた伍長で、東部戦線を何度も経験してきた古参兵だ。
無口で冷静。命令よりも状況を読むことを優先する人間だった。
「まだここにいたのか」
カールは瓦礫の隙間に腰を下ろし、懐から凍ったパンの欠片を取り出した。
ヴァルターは答えなかった。
「ヴォルガが凍ってる。渡るなら今だ」
カールは、もはやヴァルターの上官ではない。
ただ、戦場を生き延びてきた男だった。
「夜間なら狙撃も避けられる。東岸に渡れば、あとは運だ」
「東岸は敵地では?」
「ここは死地だ。向こうは敵地だ。違いはあるか?」
川を渡り、ソ連の支配地域を進みながら、包囲網の外に出る。
無謀だ。
だが、無謀であるがゆえに、敵の意表を突けるかもしれない。
少なくとも、このままここに残るよりは、可能性がある。
向こうには食料も、暖房も、人家もある。
ここには何もない。
カールはパンを半分に割って差し出した。
ヴァルターは受け取らなかった。
「決めろ。夜は長くない」
カールは立ち上がり、雪の中へ消えていった。
足音はすぐに雪に吸い込まれ、静寂だけが残った。
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