第4話。多いエンカウントとリンゴ。
「……さて、移動しようか」
さすがに、死体の山の隣で朝ご飯は無理がある。
ジョンの功績は称えたいが、匂いがリアルすぎて食欲ゼロだ。
「ごめんな、ジョン。片付ける前に朝食どころじゃなくなったよ」
「ワン!」
テントを片付けようと意識した瞬間、
目の前で布地がすうっと消えていく。
「……これ、ほんと便利だな。意識だけで収納って、未来すぎる。」
脳直結型の操作が、ここまで自然に馴染むとは。
でも――どこか怖さも感じる。
これ、もしゲームじゃなかったら?
そんな考えが頭をよぎる。
気を取り直して、ジョンとともに歩き出す。
数十分後。
木々の合間に、ちょうど良さそうな空き地を見つけた。
木陰になっていて目立たず、足場も悪くない。
草の丈もちょうどよく、視界もそこそこ開けている。
「……ここにしようか、ジョン」
「ワン!」
ジョンは嬉しそうにタッタッタッと走り出し、
周囲の匂いを嗅ぎながら、ぐるりと一周し始めた。
縄張りチェック。完璧な警備体制。
「よし、今日も頼むな」
「あ、そうだ。着替えなきゃな。忘れてたよ。」
朝の空気に包まれながら、コントロールパネルを呼び出す。
寝間着から旅服へ、シュンッと切り替わる。
「……あ〜、やっぱりアイテム欄に入れてもリセットされてないのか。
洗濯機、どこにあるんだよ……この世界……」
視線が、青く汚れたマーメイドドレスに向く。
「……捨てようかな。いや、でもイベント品だしな。
まぁ、とっておくか。血まみれだけど。」
そんなことを考えていた時――ふと、気になることがよぎった。
「そういえば……下着って、どうなってんだろ……」
気にしたら負け。
そんな気がする。だが、気になってしまったらもう負けていた。
「……確認しよ」
そう言って、高木は装備をすべて外す。
なぜか**“装備”扱いされているTシャツ**もきっちり外し――
一瞬で、パンツ一丁の状態に。
いや、これ――ショーツ?って言うんだっけ?
お花摘みの時に気づいてはいたが、こうして改めて見てみると――
「ゲームシステム的に、これってどうなんだ……?
真っ裸になれるオンラインゲームなんて聞いたことないぞ……?」
誰もいないのに、なぜか恥ずかしくて上下を手で隠す。
そっと周囲を確認する。
――いた。
ジョン。
おすわり状態でこちらを見ていた。
首をかしげながら、不思議そうな目。
「……お前、オスかメスかどっちなんだ?」
問いかけてみるが、当然答えは返ってこない。
「……まあ、どっちでもいいか。」
そして、深くは考えないことにした。
「……よし。ご飯にするか。」
アイテム欄をスクロールしながら、
「何か使えそうなものはないか」と視線を滑らせていく。
その中で、ふと目に留まったひとつのアイテムをタップしてみた。
――ビニールシートっぽい物。
画面からスッと取り出されたそれは、
透明地にカラフルな水玉模様が散りばめられた、まさにレジャーシートのような一枚だった。
「……うわ、懐かしい」
思わず声が漏れる。
小さい頃――
なぜかこういう透明なシートが好きだった。
理由はよく覚えていないけれど、
“透明”というだけで、何か神秘的に見えていた。
今思えば、あの頃の自分には、
**“見えそうで見えないもの”**が、すごく特別に思えたのかもしれない。
「……にしても、これゲームアイテムにあったっけ?」
アイテム名には、特に説明もない。
効果もなさそうな、ただのシート。
「……まあいいか。最近追加されたのかもしれん」
高木はそう呟いて、
懐かしさの余韻をそのまま味わいながら、
ビニールシートを草の上に広げた。
移動して場所は変わったが――
いつもの朝のルーティーンは欠かさない。
まずは洗顔と歯磨き。
この世界では必要ないのかもしれないが、
やらないと、どうにも気持ちが悪い。
アイテム欄から大きな皿を取り出し、
そこに聖水を注ぐ。
草の上に正座し、足の間に皿をセット。
そのまま、上半身をゆっくり倒して――顔を近づける。
体が柔らかいので、屈伸も楽。
冷たい水が顔に当たり、心地よい感覚が広がる。
「……うむ、気持ちいい」
もしこれが現実の体だったら、
こんな正座体勢で顔を洗うなんて、中年腹――いや、初老腹では絶対に無理だ。
「……ついでに柔軟体操でもやっとくか」
体が軽くて柔らかいと、動かすのが楽しくなる。
あ、柔らかいって“関節の話”だからな?勘違いすんなよ?
「お〜、すげぇ。開脚屈伸で地面にべったりつくじゃん。
……ていうか、体っていうより、胸が先に着地してるなこれ……」
上半身を深く倒すたびに、
胸が地面にふにゃっと押しつぶされる感覚が伝わってくる。
「うわ……やわらけぇ……」
ふわふわと弾力があって、地面に触れた部分だけ微妙に変形していくのがわかる。
押し返してくるような弾力じゃなくて、素直に沈んで馴染んでいく感じ。
「……おいおい、何だよこの感覚。物理演算、こだわりすぎだろ……」
ちょっと妙な気持ちになりつつも、痛みはない。
不思議なリアリティだけが、やたらと鮮明だ。
「……これ、VRの域を完全に超えてないか?」
「ぐへっ!」
突然、後ろから**ドスン!**と重みがのしかかる。
思わず変な声が出た。
――ジョンだった。
遊んでいると思ったのか、勢いよく飛び乗ってきたのだ。
「こらこら、背中で暴れるな」
ジョンはそのまま伏せるように押しつぶしてきて、背中でぐいぐい揺れてくる。
しかし――
不思議と、まったく苦しくない。
体は地面にしっかりとついているのに、
ジョンの重さが柔らかく受け止められているような、不思議な感覚。
「やっぱり……重力が弱いのか?それともこの体がチートなのか?」
余裕で体を起こすと、
ジョンをホールドして、逆にゆさゆさ揺らす。
「お返しだー、ジョン!」
そのままモフモフのお腹に顔をうずめて――犬吸い。
「……ふぅ、癒し」
ジョンは嬉しそうに尻尾を振って、ぺろりと舐めてきた。
この空気、この朝――
“異世界”なのに、“安心”がある。
「よし、そろそろ朝食にしようか」
主食がないのは残念だが、
今日も焼き肉スタイルだ。
「……ジョンも食べられる肉で助かるよな。
猫缶とか、アレ一応人間も食えるらしいけど――味は極薄だってよ」
空を見上げて軽く笑いながら、
高木はアイテム欄から、今朝の素材を探しはじめた。
「さて――火を付けるか……」
前回の成功(いや、失敗寄りの成功)を思い出しながら、
今回は慎重に準備を進めていく。
枝から削ったおがくずを、小さくこんもりと山にし、
もう一方の枝を両手で挟んで、ゆっくりと回転させる。
力加減に気をつけながら、焦らず、丁寧に――
やがて、パチッ……と火花が散り、薄く煙が立ちのぼった。
「……よし、慎重に火を定着させていこう」
火種を乾いた葉に移し、
そっと息を吹きかける。
ふわり――。
葉がじわりと熱を帯び、やがて小さな炎が揺れ始めた。
「……よしよし、いい子だ……」
焚き火に語りかけるように、
細い枝を追加。燃え始めたら、今度は太めの枝。
炎は、一歩ずつ着実に育っていく。
ジョンはその様子を、じっと見つめていた。
炎が安定してくると、安心したように尾を軽く振る。
炉の形を整え、薪をくべ、
力強く育った焚き火の光が、辺りをあたたかく照らし出す。
手早く鍋を取り出して、お湯を沸かす準備を始める。
鍋の中から立ちのぼる湯気。
それを見ながら、ジョンがすり寄ってきて、
満足げに鼻を鳴らした。
そして、そのまま目を細めて――うとうとしかけている。
「うむ、できた……なにこの達成感!」
高木は焚き火の前に座り込み、
ちょっとだけ得意げに、ジョンの頭をぽんと撫でた。
本格的なキャンプができるなんて、思ってもみなかった。
――某動画配信サイトで観た、
雪深い森で即席の小屋を作り、暖炉兼カマドまで設置して、
最後に雑な感じで肉と芋を焼いてたやつ。
やたら手際が良くて、妙に楽しそうで――
あのとき感じた、ちょっとした憧れが、今ここで現実になっている。
「……悪くないな、こういうのも」
そんなことを思っていたら、ジョンが「ハッハッハッハッ」と軽快な足音とともに戻ってきた。
満足そうな顔。尻尾も小刻みに揺れている。
「よ〜しよしよし、おかえり」
水を皿に注いで差し出すと、
ジョンは勢いよく、夢中になって飲み始めた。
その元気な飲みっぷりが、なんだか嬉しい。
次に餌を与えると、ガツガツと、音を立てて食べ始める。
――痩せた体が、早く元気になりますように。
そんなことを思いながら、
私はお湯をひとくちすする。
温かなものが、喉から胃へとゆっくりと落ちていく。
その静かな心地よさに、体がほどけていくようだ。
「……そろそろ、お茶みたいなものが欲しくなってきたな。」
食べ終わったジョンが、こちらを見て**「クーンクーン」と鳴いた。**
もっと欲しいのか?
食欲があるのは、いいことだ。
「ほれほれ、たーんとお食べ」
さっきと同じくらいの餌を出してやると、
ジョンはバクバクと嬉しそうに食べ始めた。
――でも、食べすぎも体に良くない。
今日は、これくらいにしておこう。
焚き火の火がちょうど安定してきたところで、
肉を取り出して、串に刺す。
炎の上でゆっくりと回しながら、焼いていく。
ジュウ……ジュウ……
立ち上る香ばしい匂いと、焼き色が食欲をそそる。
表面がこんがりときつね色になったら、
慎重に火加減を調整しながら、じっくり中まで火を通す。
ひとくち。
ジュワッと広がる肉汁。
香り、食感、旨味――完璧だ。
「……うん、うまっ」
思わず笑みがこぼれた。
ふと視線を感じて横を見ると、
ジョンが鼻をひくひくさせながら、じーっとこちらを見ている。
「……なんだ?焼いた肉が気になるのか?」
くいくい、と首を傾げるジョン。
「よしよし、じゃあ……ちょっとだけな」
焼き上がった肉を、小さな一切れにして分け与える。
ジョンは、それはもう勢いよく食べ始めた。
その嬉しそうな姿に、心がじんわりと温まる。
……とはいえ。
肉だけを腹いっぱい食べ続けると、さすがに飽きる。
最初は感動的だったが、3枚目を過ぎたあたりで気分が少し変わってきた。
「早く街に行って、文化的な食事がしたいな……」
ちょっと贅沢を言いたくなる朝。
「は~……さてと、歯を磨きますか。」
「さて……歯を磨くにも、まず道具がいるな」
作り方は――なんとなくテレビで見た記憶がある。
だが、詳細はかなりあやふやだ。
「まあ、やってみるか」
森の中を少し歩き、ちょうど良さそうな枝を見つける。
細くて、適度にしなやか。太さは親指くらい。
ナイフを手に取り、片端の皮をそっと剥き始めた。
……が。
「うお、滑った! あっぶなっ!」
力加減が難しい。何度か刃がズルっと滑り、冷や汗をかく。
なんとか皮を剥ぎ終えたあと、今度は石を使って先端をトントン叩く。
繊維をほぐす作業だ。
「確か、こうやって――こう、叩いて……って、あっ、やべっ!」
ちょっと叩きすぎて、枝がミシッと音を立てた。
「ちょ、折れるなよ!? お前は俺の歯の命綱なんだぞ!?」
慌てて手を止めて加減しながら、ようやくブラシっぽい形に整える。
ふぅ、と息を吐いて、胸を撫で下ろした。
「……たしか、塩と炭を付けるといいんだったかな。
いや、なんか最近、歯ブラシに歯磨き粉いらない説も聞いたような……?」
アイテム欄を開く。
――塩、なし。炭、なし。
「……まあ、あったらとっくに肉にふりかけてるしな。」
仕方ない、ナチュラル磨きでいこう。
「……これで、いけるはずだ」
そう自分に言い聞かせ、ぎこちなくも、慎重に歯を磨き始める。
ブラシは粗削りだが、意外としっかり歯の表面に当たってる。
ザリザリとした感触。
妙なリアリティ。
「……うん、これ、磨けてる気がするぞ」
口をすすぎ、さっぱりとした爽快感が口の中に広がる。
「……悪くないな」
なんなら、この不格好な歯ブラシに、ちょっと愛着すら湧いてきた。
大事に洗って、
次も使えるように日陰に干しておく。
まさか異世界で、歯ブラシを手作りする日が来るとは思わなかったけど――
それも悪くない。
「さて、今日は――昨日もらった装備を試着してみようか」
コントロールパネルを開きながら、ちらりとジョンを見る。
「見てろよ、ジョン。これは、ずっと憧れてた装備なんだぞ」
縄張りチェックに行こうとしていたジョンは、首を傾げてこちらを見た。
……可愛い。けど、今日はこっちが主役だ。
アイテム欄から最高性能の防具セットを選び、装備枠にドラッグ&ドロップ。
一瞬、淡い光が身体を包む。
そして次の瞬間――
「……おおぉ……マジか、これ……」
装備されたのは、ビキニアーマーとマント。
肝心な部分だけを絶妙に覆う、戦うための服にしては露出過多なデザイン。
それなのに――
着てみると、やたらと収まりが良い。
ボディラインをなぞるようにフィットし、露出している部分と覆っている部分の境目がやけに艶っぽい。
「えっ……この腰のライン、ヤバない? これ、戦う服か……?」
まるで計算されたかのようなデザイン。
胸元はしっかりとホールドされているのに、なぜか谷間がしっかり主張してくる。
肩紐は細く、首筋から鎖骨、肩のカーブにかけて肌が綺麗に見えてしまっている。
――自分の体なのに、視線を逸らしたくなるようなセクシーさがあった。
「……ちょっと、これ……NPCに見られたら通報されないよな?」
自動調整機能が入っているのだろう。
スレンダーな体にもぴったりと吸い付くようにフィットし、可動域もまったく損なわれていない。
背中や脇も開いているのに、動くたびにちらりと光が流れるように肌がのぞく――完全に狙ってる。
鍋の反射で姿を確認してみると、
思っていた以上に“女らしさ”が前面に出ている姿にドキッとする。
「……えっ、これ……俺、ちょっと可愛い……?」
自分で思ってしまったその一言に、そっと頬が熱くなる。
装備の性能は文句なし。
魔法防御、属性耐性、軽量かつ高い機動力。回避型キャラにとってはまさに夢の装備。
だけど。
「……問題は、これ着て街を歩けるかどうかだな……」
顔を赤らめながら、そっとマントを前に引いてみる。
それでも隠れない谷間に、軽く絶望するのだった。
マントの表地は、しっとりとした光沢がある黒革。
手触りと質感から察するに――おそらく、サラマンダーの革だ。
(……たしか、公式の説明文にそう書かれてた気がする)
内側は、驚くほどなめらかな素材が使われている。
高級カシミア。――そう信じたい。
カシミアなんて、現実ではマフラーくらいしか持ったことがない。
それが今、背中をすっぽりと包み込んでいる。
「……あぁ、いいなこれ。贅沢すぎる」
マントの両側には、うっすらと魔法陣がエンボス加工で刻まれている。
さりげなく、だが確実に存在を主張する造形美。
ダメージ軽減、移動速度上昇――性能は申し分ない。
その上で、この高級感とデザイン性。
完璧じゃないか。
「……このまま、このマントに包まって野営とか……旅のロマンってやつだな」
かつての旅人たちも、こうしたマントに機能性を求めたという。
これはまさに、その現代(異世界)版。
露出の多いセクシーなビキニアーマーに、
この黒くて上質なマントが覆いかぶさる――
肌の白さと、マントの深い黒とのコントラストがいやに映える。
露出は多いはずなのに、どこか気品さえ漂うのは、
素材とデザインの力なのだろう。
「たぶん、ミスリルとか使ってるに違いない……(妄想だけどな)」
ひとりごちてから、横にいたジョンに視線を向ける。
「どう?ジョン。カッコいいだろ?」
「ワンワン!」
ジョンが前足をバシッと私の腰にかけてきた。
そのまま立ち上がると、私よりも背が高い。
「うわっ、おい!顔舐めるのはやめろって!」
べろん、と長い舌がほっぺを直撃。
「そーかそーか、お前も気に入ったか」
「ワン!」
――高級装備に身を包んでも、
この犬だけは、常に平常運転らしい。
ジョンが、「ハツハツハツハツッ」と息を弾ませながら、嬉しそうに跳ね回っている。
舌を出して、何度もこっちに顔を近づけてくる。
「おいおい、顔は舐めるなって。せっかく着替えたばっかなんだからな」
わかってるのかいないのか――
ジョンはそのまま後ろ足でバランスを崩し、**「ワンッ!」**と短く吠えて尻もちをついた。
「ははっ、ドジっ子かお前は」
思わず笑って、ジョンの耳をくしゃくしゃと撫でる。
柔らかな毛の感触が、やたらと心を落ち着かせてくれる。
森の空気が、さっきよりも少しだけ暖かく感じられた。
「さて……着替えるか」
昨日と同じく、“探索モード”の服に変更する。
軽装だが、露出は控えめで動きやすい。――つまり、安心感がある。
ビキニアーマーの方が数値上の防御力は高いが、
あれはどうしても落ち着かない。
あれを着てゴブリンの群れと遭遇したくない。物理的にも、精神的にも。
装備を切り替え、気持ちを整える。
「よし……そろそろ行こうか、ジョン」
「ワン!」
ジョンが勢いよく飛び上がり、ぐるぐると地面を回りながら出発の合図を送ってくる。
――よし、行こう。
さっさと道具を倉庫に仕舞い、ジョンと一緒に出発する。
かつて“道”だったであろう場所を、かき分けるようにして進んでいく。
獣道のような痕跡が、少しずつ道の名残を取り戻してきた頃――
左手に、ぬかるんだ湿地帯が見えてきた。
垂れたツル、くすんだ緑、枯れ木の連なり。
――この場所を、俺は知っている。
ここは「ゴースト徘徊エリア」だ。
かつて、ゴブリン相手では物足りなくなったプレイヤーたちが、
「次の狩場」として一度は足を踏み入れる場所。
だが――
このゴースト、やたらと硬くてタフで、しかも魔法系。
1体だけで手一杯。2体目に出会った瞬間、撤退しないとまずいレベル。
バランス、めちゃくちゃ悪い。
当時のプレイヤーの大半は、ここを避けて別ルートに進んでいた。
街道沿いには出てこないとされているので、俺もここはスルーする。
それに――この雰囲気がどうにもダメだ。
濁った水面に反射する、曇った空。
木々は枯れ果て、わずかに残る緑も灰がかぶったようにくすんでいる。
風の音が、妙に静かだ。
「……やっぱり嫌いだな、ここ」
ジョンも気配を感じ取ったのか、いつもより少しだけ足取りが重い。
「大丈夫だ、こっちには来ない……はずだ」
念のため、腰に手を添え、剣の柄を軽く撫でる。
この世界に入ってから、**“知っているはずのものが、ちょっとだけ違う”**ということが何度もあった。
だから油断はできない。
ちょっと早足で通り過ぎようとしているのだが――
「……湿地帯、長くないか?」
水音がぴちゃ、ぴちゃと靴底から響く。
視界の端に広がる泥濘、薄暗い木々。終わりが見えない。
まさか、今日中に抜けられないってことは……ないよな?
(……あっ)
「あ~!バッファーかけるの忘れてた!」
思わず額を押さえる。肝心な時に忘れてる。支援職のくせに!
腰の剣を軽く振り上げ、足元をくるりと一歩回る。
「ダンス・オブ・ラピート!」
その瞬間、足元から淡い青い光が立ち昇り、スカートの裾を撫でるように駆け巡った。
同時に、ジョンの足元にも光の輪が広がり、彼の毛並みをそっと撫でていく。
まるで光の風が一瞬吹き抜けたような感覚――
「ふぅ……よし、思い出したぞ。バッファーはそもそも、複数人パーティー支援用の魔法だったな」
とはいえ、今はジョンと二人パーティーだ。
それで十分だろ。
軽くステップを踏むと、靴底がぬかるみに沈みにくくなっているのがわかる。
体も明らかに軽い。呼吸もスムーズだ。
ジョンもぴょんぴょんと軽やかに跳ね、振り返って「ワン!」と吠えた。
「おっ、効いてるみたいだな。よし、行こうか!」
湿地帯の不気味な空気を、青白い魔法の残光がやさしく塗り替えていく――
昼が近いはずなのに、周囲は妙に薄暗い。
空は晴れているのに、濃く、黄ばんだ霧がじっとりと景色を覆っている。
ぬかるむ音、重たい空気――湿地帯の不快指数がぐんぐん上昇中だ。
(終わんねぇな……この沼)
なるべく見ないようにしていた左側。
視界の端で、何かが**“ゆらり”**と揺れた。
仕方なく目を向ける――その瞬間だった。
濁った水面から、半透明の影がゆっくりと立ち上がる。
形は人のようでいて人でなく、
輪郭は揺らぎ、目だけが、異様に赤く光っていた。
「……っ!」
言葉を失う。息が止まりそうになる。
そして――
数体のゴーストが、こちらをじっと見ていた。
「うわぁぁぁぁぁああ!!」
叫ぶより先に、体が動いていた。
「ジョン!!全力で走れッ!!」
「ワンッ!!」
ジョンが先陣を切って疾走する。
四足歩行の機動力、速すぎる!
「待て待てジョン!!こっちは人型なんだよ!人型ぉおおおお!!!」
もう全力はキャンセルだ!無理だ!おいてかないでジョン!!
ぬかるみを跳ね、木々をすり抜け、
ただひたすらに走る。背後の気配が追ってきているのがわかる――
このゲーム、リアルすぎて怖すぎる!!!
振り返る。
湿地の霧を裂くように、滑るような動きでゴーストが迫ってくる。
ぬるり――と音が聞こえた気がした。空気がざらつく。
「ひっ――!」
一瞬、喉が詰まりかけた。息をする暇もない。
理屈では勝てる。性能上は、間違いなくこっちの方が強い。
でも無理。見た目が無理。存在が怖い。
全力で駆け出す。湿地の空気が、足元を捕まえるように重くのしかかる。
「うぉぉおおおおおおおっ!」
もはや理性は置いてきた。とにかく逃げる、それだけ。
湿地の獣道を、ジョンと並んで走る。
ドッ、ドッ、ドッ、ドッ――心臓の音と、地面を蹴る音しか聞こえない。
そして――
空気が、変わった。
ぬかるみが消え、地面が乾いている。足音が軽くなった。
後ろをちらりと振り返る。
「……いない……?」
霧の中には、何の気配もない。
「はぁっ、はぁっ、ハァァァ……怖かったな、ジョン……」
「くぅ~ん?」
横を見ると、ジョンは首をかしげてこちらを見ている。
ピンときてない顔だ。お前、ああいうの平気か……?
「まぁいい……無事ならそれで……」
視線を前に戻す。
乾いた街道が、はっきりと見えてきた。
ここから先は、たぶん大丈夫。
――でも念のため、警戒は緩めずに歩こう。
湿地帯を抜けた街道は、静かで穏やかだった。
森の雰囲気も先ほどとはまるで違う。
下草も少なく、ツタに覆われた木々も見当たらない。光が通り、空気もどこか清らかだ。
ジョンが軽やかに先を歩きながら、時折こちらを振り返る。
そのたびに、ピンと立てた耳と尾がふわっと揺れる。
「よしよし、やっと落ち着いたな……」
そう思った瞬間だった――
「ぐぉぉぉぉ!!」
茂みが爆ぜるように裂け、影が飛び出してきた。
地面が震え、土が跳ねる。
視界を覆うように現れたのは――オーク。
だが、何かがおかしい。
でかい。
やたら筋肉が分厚い。
棍棒が丸太にしか見えない。
そして――その目。
獲物を捉えた猛獣のような血走った双眸。
「え、えぇ!? オーク!? こんな場所に出るのかよ!?」
「ワンッ!!」
ジョンが素早く駆け寄り、主人公の前に出るように構える。
オークは低く唸りながら棍棒を肩に担ぎ、ゆっくりと間合いを詰めてくる。
街道の先に――オーク!
「あ、ムリムリムリムリムリムリ!!」
逃げたい!本気で逃げたい!
でも後ろは……あのゴースト湿地帯……。
「戻る方が地獄!!」
くっそ、前にも地獄があるんだけど!?
このゲーム、モンスターとのエンカウント率おかしくないか!?
いや、ゲーム的には“ほどよい刺激”なのかもしれないけど――
こっちは旅してる気分なんだよ!のんびり風景楽しみながら歩きたいんだよ!!
「ぐぉぉぉぉ!!」
オークが咆哮を上げながら突進してくる。
棍棒が、丸太サイズだ。なんで!?
ジョンは尻尾をピンと立て、低く唸り声を上げて構える。
対して俺はというと、柄を握る手がガクガクしている。
「落ち着け……たしかオークって、見た目はヤバいけど、経験値的には余裕の雑魚だった……はず……」
でも、無理!
顔が怖い!造形がエグい!!
ゲームの頃も見慣れなかったけど、立体になるとさらにヤバい!
棍棒が振り下ろされる!
「っわ!!」
咄嗟に横に転がる。
ドォン!! ――地面が揺れた。重い衝撃が腹に響く。
(はえぇ……!? 動きが早くね!?)
脳がフル回転する。ゾーンに入ったように、時間の流れが遅く感じられる。
視界が広がり、重心の感覚が研ぎ澄まされていく。
(……慣れてきたのか……? この体に……)
でも!
「ジョン、頼んだ!!」
「ワン!!」
ジョンが一声吠えると、地を蹴って飛びかかる。
そのままオークの足元に噛みつき、かすめるように走り抜ける!
「ナイス牽制!!」
オークの重心が揺れる。体格がデカいほど、一度バランスを崩せばリカバリは遅くなる――!
ゲームでもよくやった。
小型の仲間に足元を取らせて、反撃のチャンスを作る!
「いいぞジョン!そのままもう一回!」
俺一人じゃムリだ。でも、大人は全部一人でやろうとしないのだ――!
「よし、今だ!」
恐怖を振り払い、武器を両手に握る。
踏み出した一歩で、瞬時に間合いを詰めた――
「っらぁあああッ!!」
剣を水平に振り抜く。
オークの足が、まるで紙を裂くようにスパッと切れた。
(え、やわっ!?)
オークが「え?」という顔をした。
次の瞬間、片足立ちになって巨大な体がぐらつく。
「ワン!!」
背後からジョンが飛びかかり、倒れるオークの肩口に食らいつく!
タイミングは完璧。
俺は剣を回転させながら握り直し、
そのままもう一方の剣を胸部へと突き立てた!!
「ぐぉっ……!」
オークの呻き声。だが止まらない。
その勢いを殺さず、
突き刺した剣を引き抜き、振りかぶって――
「ッせいッ!!」
頸動脈を切り裂く一閃。
さらにそのまま、もう一度――
眼球を貫き、剣が脳へ届く感触を感じた。
ぐらり、と。
巨体が地面に沈む。
「……終わった……か?」
「ワン!」
ジョンが尾を振る。
だが、その顔は**「ねぇ!今の見た!?褒めて!」**としか言っていない。
思わず――笑った。
緊張が、すうっと溶けていく。
(……いや、でも……なんでだ?)
勝った。完全勝利だ。
疲れてはいない。むしろ余裕だったはず。
けど――
「……なんで、こんなに心臓がバクバクしてんだろうな……」
体が軽い分、心がまだついてこないのかもしれない。
オークの死骸が横たわる。
その存在感のまま、恐怖の余韻だけが残っている。
(……強かった。いや、あれ……本当に普通のオークだったか?)
どこか、胸の奥で引っかかるものがあった――
「さて……これ、置いてっていいのかな?」
街道のど真ん中に、ドン!と横たわるオークの巨体。
景観ぶち壊しなうえ、物理的にめちゃくちゃ邪魔だ。
「……通行人、通れないだろこれ……」
別に埋葬するつもりはないが、
せめて道の脇に寄せておくくらいの礼儀は必要じゃないか?
「……てか、動くのかコレ?」
恐る恐る近づく。
血の匂いが強烈に鼻を突く。顔をしかめるレベル。
「うっっっっっっっっっっ……くっさ!!」
足元は血の海。
赤くないのが唯一の救いだが、足元を選ばないと滑りそうで怖い。
ジョンは少し離れた場所で、
「オーク?それはもう処理済みでは?」みたいな顔で尻尾を揺らしている。
「よし……やるか……」
オークの腕を掴む。重い。けど――
「ん、あれ? ……意外とイケる?」
ズズズ……ズズズ……ッ
上半身が引っ張られると、連動するように下半身もズリズリと動く。
「おおっ!? こいつ……動くぞッ!?」
なんか、やけにスムーズ。
見た目の重量感とは裏腹に、想像よりはるかに軽く感じる。
「ってことは、俺のこの体……やっぱ力持ちなんだな……」
LV59――
ゲームではただの数値だったものが、こうして実感として現れている。
「……なるほど、これが“筋力ステ依存”のリアル表現ってやつか。納得したわ。」
地面には、しっかりとオークを引きずった“溝”が残っている。
血と泥が混ざって、ちょっとしたホラースポットだ。
「……ま、ちょっと道が汚れたが……通行には支障なし。ヨシッ!」
ジョンが「ワン!」と答える。
主人公は軽く手を払って、血が跳ねていないことを確認しながら歩き出す。
「さて、行こうかジョン。」
「ワン!」
街を目指して歩き続けていたその時――
視界の端に、なにか“澄んだ光”のようなものが見えた。
足を止めて、草をかき分けてみる。
「……池?」
そこには、まるで鏡のような小さな池が広がっていた。
透明度が異常なほど高く、空や木々の姿がくっきりと映っている。
水底には丸い小石が整然と並び、まるで神聖な泉のような雰囲気すらあった。
思わず息をのむ。
「……綺麗だな……」
水辺に腰を下ろして、ひと息つこうとしたときだった。
「……ん?」
ふと、池のそばに立つ木に目を向けると――
その枝に、真紅の果実がいくつも実っていた。
木漏れ日に照らされ、宝石のようにキラキラと輝いている。
「……お前は、まさか……!」
見覚えがある。
あの果実――“リンファの実”だったか、“セレーネアップル”だったか?
何かの限定イベントで必要だった、レアアイテムのはず。
当時は全然見つからなくて、オークションでも馬鹿みたいな値段が付いてた。
「マジかよ……ほんとにあるんだ、これ……」
うっかり声が漏れた。
隣でジョンが「クゥン?」と鼻を鳴らして首を傾げる。
「……いや、わかんないか。これ、めっちゃレアだったんだよ。俺、一回も見つけたことなかったんだからな」
果実は枝にぷくっと実っていて、まるで“食べてくれ”と言わんばかりにこちらを誘っている。
「……とりあえず、一個だけ、もらっておくか……」
そう言って手を伸ばし、指先でそっともぎ取る。
まるで熟した桃のように、指に吸い付くような柔らかさと、
ほのかに漂う甘い香りが鼻腔をくすぐる。
(……これ絶対うまいやつだ……!)
一つを手に取り、慎重にかじってみる。
シャクッ――
口の中に甘酸っぱくて瑞々しい果汁が広がる。
うまい。
ただうまいだけじゃない。ずっと肉ばかりだった胃が、「やっときたか…!」って言ってる気がする。
「……あぁ……これ、染みるわ……」
ふと視線を上げると、ジョンがじっとこちらを見つめていた。
その目は明らかに**「俺にもくれないかな?」**って訴えている。
「……ほれ、食ってみるか?」
もう一つもぎって、手のひらに乗せて差し出す。
ジョンは一瞬だけクンクンと匂いを嗅ぎ――
パクッ!
「おお、食った!?」
ジョンはムシャムシャと果物を頬張り、喉を鳴らして飲み込んだあと、満足げに「ワン!」と吠えた。
……なんか、ちょっと嬉しそうだ。
「お前、果物いける口か~……」
ふと不安がよぎる。
「……いや、ネギとかダメなのは猫だったか?犬もだっけ?……まあ果物は平気だろ、多分」
脳裏に浮かぶ、初代ジョン(実家の柴犬)――たしか、リンゴをすごい顔してかじってたな……。
「大丈夫だ。初代ジョンも無事だったしな(たぶん)。」
木にぶら下がったままの果実が、太陽を受けて赤く透けている。
「……まあとにかく!」
胸を張って宣言する。
「肉以外の食料ゲットだァッ!!」
「ワン!」
ジョンが同意するように、ぴょんっと前足を上げてきた。
次々と果物を収穫しては、手の中で転がし、アイテム欄へ一つずつ丁寧に仕舞い込む。
収穫が終わる頃には、枝から果実はほとんどなくなっていた。
「うむ、満足――」
木陰に腰を下ろし、しばし休息を取る。
澄んだ空気、柔らかな風、ほのかに香る果実の甘さ。
そして、隣ではジョンがくるりと丸くなってウトウトしている。
自然は、いいな。
体力は平気でも、こうして“心の疲れ”を癒せる場所はありがたい。
ふと、池に目をやる。
(……そういえば、ここで釣りした記憶があるな)
釣竿を持って、この透明な池で大物を狙った……気がする。
何のイベントだったか、何を釣ったのかは覚えていないけど――
確か、やたら長い戦いで、竿が壊れたような……?
(……あー、そんなこともあったな)
釣りの記憶がぼんやりとよみがえってくる。
そのまま、このままもう一度竿を垂らしたくなるような気分に駆られるが――
(ダメダメ、まだ街まで遠いし)
そう思い出した瞬間、ため息がこぼれた。
「……まだまだ長い道のりだな……」
背中を伸ばして、手のひらで土を払う。
「ジョン、行くぞ。」
「ワン!」
ジョンがぱっと立ち上がり、嬉しそうに前足を小さく跳ねさせる。
その軽やかな反応に、少し笑みがこぼれる。
池の美しさも、果物の瑞々しさも――
全部、心にしまっておこう。
そして、また歩き出す。
旅の続きは、まだまだこれからだ。