page.7『オレンジ色に輝く水平線で、出逢いは突然に。』
最後にシャチのショーを堪能して、出入り口の正門ゲートから水族館をあとにしたのは、海の表面がややオレンジ色に輝きだした時間帯。
あのあと、イルカのショーには無事に間に合い、それを見終えたあとの悠羽と空澄は、また最初から水族館の館内を回ることにした。大水槽よりも奥に続くエリアでは、ペンギンが暮らす環境が再現されたような展示エリアに、アシカ、アザラシ、ウミガメと様々な大きな生き物たちの豊かな様子が間近で見れる。
ゲートを抜けたあと、悠羽は一度は駅の方に舵を取ろうとしたが、
「海も見ていかない?」
と、そんな空澄の提案で、ゲート前を離れた悠羽と空澄は海の方向に足を進めた。
ドルフィンスタジアムの建物を左手に、スタジアムと『AQUALIVE』を繋ぐ渡り廊下の下を道なりに進んでゆく。すると、すぐに海の表面が目の前に見えた。
伊澄シーワールドのすぐ隣に並ぶよう造られた、駅の名前の由来である伊澄海浜公園の伊澄海岸だ。
先々月に行われたと空澄が教えてくれた水族館のリニューアル。それと同時並行で工事が施されたらしい公園の敷地内には、小さな子供たちが遊ぶ用の一般的な公園エリアに加えて、食事やショッピングとかの大人までもが楽しめるエリアなどもあった。
公園と名付けられた場所だが、敷地内はちょっとした複合施設のような雰囲気がある。カフェではゆったりとした時間を過ごせたり、松林に囲まれながら木製テントでバーベキューなんかも楽しめたりするらしい。
公園の敷地に足を踏み入れた悠羽と空澄は、そのまま穏やかな緑の木々に囲まれた道を進む。すると、すぐに海岸が出迎えてくれた。
潮風に混じる磯の香りと波の音が、海の存在を感じさせてくれる。公園の建物に背を向けて、砂浜の上に進み出た悠羽と空澄の全身を次第に海風が包み込んでゆく。足は砂に取られて少しばかり重い。
まだ季節は春の半ば。最近では夏の接近を間近に感じる日も増えたとは言え、まだ海開きはされてはいない。それでも、海岸には多くの人たちがこの海岸で望める景色を求めて足を運んでいた。遊具がある公園の区間では楽しそうに子供たちが遊び、カフェなどでは美味しい食事を楽しみ、海岸は日常生活から抜け出したような気分にしてくれる。
波の音に導かれるように、砂浜の上を横一線で区切るみたくレンガで整備された遊歩道の上に出た悠羽と空澄は、そこから海に向けて伸びた三段ほどある大きな階段の途中で腰を下ろした。
しばらく海を眺めたあとで、波打ち際に顔を向けたままの空澄が口を開く。
「今日のデートはどうだった?」
「まあ、楽しかったです。水族館なんて……久しぶりだったので」
「ならよかった」
そのまま続けて、
「小説の参考には、なりそう?」
と、自分の足元に視線を落とした。
「デートのシーンを書くときには役立ちそうですかね」
「少しは、私のこと理解してくれた?」
今度は悠羽の方に目を向けた空澄が、そんなことを訊ねてくる。そんな空澄と、悠羽は横目越しに一瞬だけ目が合った。
海岸に視線を戻した悠羽は、少しの沈黙を挟んだあとで、
「それは、まだまだですかね」
と、素直に答えた。
「そっか」
口調はそのままに、空澄は海の方に向き直る。
なにが好きで、なにが苦手なのかは今日で少しだけ知れた。ちなみにペンギンが一番好きらしい。苦手なのはエイだった。水族館の三階に上る階段の途中に、タッチングプールとして生き物とふれあえるエリアがあったのだが、そこに展示された小さなエイを目にした途端に、悠羽は空澄に腕を掴まれてそそくさと屋上まで連行されたのだ。
それでも、悠羽はまだ『藤宮空澄』がどんな人物なのかまでは知れたわけじゃない。それが現状だ。
「ねえ」
続けて口を開く空澄に、悠羽は横目だけを向ける。
「私も、ひとつ君に聞いてもいい?」
「なんですか?」
「どうして君は、私の無茶なお願いを引き受けてくれたの?」
「……」
砂の上に視線を落とした悠羽を、空澄は視界に映す。
「……」
悠羽は視線を砂浜から上げて約四キロメートル先に見える水平線を視界に映すと、頭の中で空澄がした質問の内容を反芻する。そのあとで、
悠羽は視線の先にある砂をじっと見据えたまま、頭の中で空澄がした質問の内容を反芻する。そのあとで、
「あれだけ本気で頼まれて、断る方のが難しかったってだけですよ」
と、ゆっくりと言葉をこぼした。
「それだけの理由で、私の頼み事を引き受けてくれたの?」
疑問の眼差しを空澄はこちらに向けてくる。
「あとはまあ、藤宮さんの気持ちが少しわかるからですかね」
「私の気持ち?」
「僕も、小説を書きたいって思ったことがあったんです」
「君が?」
「きっかけは、一冊の小説で。その小説は最初の一ページを捲れば、物語を読む人たちをその世界の中に引きずり込ませるようなもので。僕は素直に、その作者に憧れたんです」
悠羽はそこで一度言葉を区切ると、視線を砂浜から上げて水平線を視界に映した。夕日が輝く海の表面は綺麗だが、少し眩しい。
「自分もこの作者ように、誰かの記憶に残るような物語を書いてみたいって。そう思ったことがあるだけですけどね……」
そう誰に語るわけでもなく、悠羽は言葉をもらした。
「もしかしてだけど、その作者って、渡良瀬みやこ先生?」
「そうですよ。藤宮さんの好きな」
「やっぱり君も好きだったんだ」
悠羽の横顔を映した空澄がそう呟く。
「君に頼んだのは正解だったのかも」
そう言葉を口にした空澄は海に向き直ると、波打ち際を楽しそうに駆け回る小さな男の子を目に映した。
「僕としては、面倒事に巻き込まれただけですけど」
含みのある口調でもらした悠羽の言葉に、居心地が悪そうに空澄は夕焼け空へと視線を逃がした。そのまま、
「もういい時間かもね」
と、鞄から出したスマホに空澄は目を向けた。
現在時刻は十五時四十四分。朝食と昼食を食パン一枚だけで済ませた悠羽の腹はさすがにもうそろそろ限界を迎えそうだった。
「そうですね」
短く悠羽がそう返すと、空澄はスマホを鞄の中にしまい、そのままゆっくりと立ち上がる。
おしりの砂を軽くはたきながら悠羽も立ち上がると、くるりと回れ右をして公園の出口に足を向けた。
《《まさに》》、《《それはそのときだった》》。
「かしい、くん……?」
レンガの遊歩道に足を進めたのと同時に、悠羽の名前を呼ぶような女性の声がどこからか聞こえたのは。
同じ名字の誰かを、その女性が呼んだ可能性もある。しかし、悠羽はその声の主を反射的に振り返った。不思議にも本能がそうしろと、身体を動かしたのだ。
悠羽に倣うように、空澄も同じくそちらを振り返る。
すると、悠羽から二メートルほど離れた遊歩道の上で、ひとりの少女が口を開けたままに立ち尽くしている姿がそこにはった。
年齢は悠羽たちと同じくらい。
身長もそこまで変わらない。
肩まで伸びた髪はやや明るめで、まだ幼さを覚える顔には驚きが滲んでいる。
目の前の謎の少女は悠羽と目が合うと、一瞬目を見開く。そのあとで、
「やっぱり、樫井くんだよね……?」
と、またその名前を口にした。今度ははっきりとした口調で。しっかりと悠羽の目を見据えて。
けれど悠羽は、自分の名前を呼ぶ謎の少女に対して、名前を呼び返したりはしない。だけど、目だけはけしてそらさずに、目の前の少女のことを瞳に映し続けた。
「君の知り合い?」
なにも言葉を返そうとしない悠羽に、そう横目に訊ねたのは空澄だ。視線に疑問を乗せてこちらを見ている。
「……たぶん、そうだと思います」
そう悠羽は少女のことを見たままに、曖昧な回答を返した。確認しなくとも、今の空澄の表情は疑問で満ちているだろう。けれど、悠羽にはそう答えるほかなかったのだ。
目の前で立ち尽くして『樫井くん』と自分の名前を呼ぶ少女のことを、悠羽は全く知りもしなかったから。
顔も。
名前も。
年齢も。
名前を呼ぶ理由も。
彼女のこと、すべて。
樫井悠羽の記憶には、存在しなかったから……。