page.2『ねぇ君、私の疑似恋人役になってくれない?』
強引に受け取らされた小説の原稿とともに帰宅した悠羽は、自室に向かうと制服のブレザーをベットの上に放り投げた。
鞄は机の上に置き、自分は鞄から文庫本を出すと自室の本棚にしまい、そのまま悠羽は椅子に深く座り込んだ。
「どうするかな……」
ぽつりと言葉をもらした悠羽の視線は、目の前の鞄の中にしまわれた小説の原稿を捉えている。
数秒間のにらめっこのあとで、悠羽は鞄の中から小説の原稿を仕方なく取り出した。
数十枚ほどの原稿用紙が纏められた一番上の紙には、中央部分に明朝体のフォントで『恋愛小説 タイトルなし』と綴られている。
タイトルがプリントされたそのページを捲ると、『プロローグ』と前置きがされたページを挟んで、それからは文字通り物語のはじまりを告げるシーンが続く。
プロローグの長さは三ページ程度。
悠羽は一度、プロローグの一ページに戻ると、書き出し部分の句点までの一文の上に視線を走らせた。
簡単なあらすじはこうだ。
物語の主人公は、ごくごく普通の高校一年生。そんな主人公はある日、放課後に足を運んだ図書室から昇降口に向かおうとした道中の空き教室で、床に倒れ込んだ二年生の先輩の女子生徒を発見する。
その女子生徒の正体は、現役ライトノベル作家として学内で有名な先輩。
すると、主人公はそこで彼女から思いもよらない『提案』を告げられる。
――その提案とは『疑似恋人役』の申し出だった。
プロローグの書き出しからそれに続く文章の上に視線を走らせた悠羽は、そのまま『第一章』へと繋がるページを抵抗なく捲った。
物語は、今年から晴れて高校生となった主人公がある日、校内のとある空き教室で二年生の女子生徒と出くわすシーンから始まる。
登場するキャラクターの中で、物語におおきく関わるのは主人公とヒロインのふたりだけ。
今年から高校一年生となった主人公――佐原鳴海と、
主人公が今年から通う高校の二年の先輩――藤咲楓花。
その日、主人公の佐原鳴海は放課後を迎えると図書室に足を運ぶ。時間は経過し、帰路に就こうと昇降口に足を向けた際に、鳴海は図書室から昇降口のある建物までを繋ぐ、渡り廊下の間に通る元部室のとある空き教室の中に床に倒れ込んだ女子生徒を発見した。
半開きのドアの隙間から見えるのは、床に広がる長めの髪と、学年で色が変わる制服のスカートから伸びる脚。
その女子生徒の正体が、物語のヒロインである藤咲楓花。
空き教室の中央に置かれたテーブルの上には、開かれたノートパソコンが置かれ、彼女はその目の前の椅子から転げ落ちたように床に倒れ込んでいる。
こんな状況に居合わせて、見て見ぬふりなんてできるはずもなく。
鳴海は教室に足を踏み入れると、そのまま彼女のそばまで近よろうとする。けれど、倒れる彼女を捉えた鳴海の視線は、途端に机の上に置かれたノートパソコンの画面に映るあるものに釘付けられた。
映し出されるのは、何行にも続く文章。その上に視線を走らせてみれば、それは小説ようなものだった。『プロット』と区切りの言葉で始まり、続く行からはあらすじなどが綴られる。文章の内容的に、物語のジャンルは恋愛もののようだ。
すると、床に寝そべる彼女が身体を起こした。
そこで鳴海は、目の前に倒れる彼女の正体が学内で名前を知らない生徒なんていないほどに有名なひとつ年上の先輩、現役ライトノベル作家の藤咲楓花だと知る。
「ねぇ君、私の疑似恋人役になってくれない?」
彼女が告げたその一言が平穏な日常を望んで過ごしてきた佐原鳴海の人生を大きく変えることになる。
第一声で告げられたとっひょうしな提案に、夏樹は当然のように言葉を失った。けれど、辛うじて夏樹は、風花にひとまず説明を求めた。
それを受けた楓花は順々に語りはじめてくれた。
初めに、『疑似恋人役』の申し出をしたのは、自身の創作に対するある悩みに理由があるのだと話される。
その悩みとやらを解決するために必要なのが『疑似恋人役』なのだと。
一体、その悩みとは……。
――それは、恋を知ること。
藤咲楓花は自身が中学一年生の時に、はじめて執筆した自作小説を公募に出して、それで大賞を受賞したことで『藤咲カエデ』と言う名義のもと小説家としての華々しいデビューを果たした。なので処女作はデビュー作。その小説のジャンルは現代ファンタジー。それから彼女が刊行する作品のジャンルはすべてファンタジー系統の小説だった。
そこであるとき、藤咲カエデは今度の新作小説で今まで全く触れてこなかった、現実世界で繰り広げられるコメディ交じりのラブコメ小説を書こうと決意する。
けれど、今の今まで、青春の全てを小説に、創作に捧げることとなってしまっていた彼女にはこれまでまともに恋愛の経験をしたことなど皆無。
そのため、藤咲カエデは自身が満足するようなラブコメを書けずに、現在も執筆の手は進まずにいた。
だからこそ、楓花はあのような頼みを鳴海に告げたのだ。
ラブコメを描くために自身《藤咲カエデ》に必要な『恋愛』を知るために。
――『疑似恋人役』の申し出を。
まるでドッキリのような提案と、それに対する事情を説明された夏樹は、その場で楓花に『疑似恋人役』を引き受けるのだと、決意を告げた。
夏樹が引き受けた理由は単純で、
PN、藤咲カエデ。
作品タイトル『この教室に、もうキミの姿はない。』
ジャンルは SF青春系の現代ファンタジー物語。
その小説を読んだのは学校の図書室でのこと。鳴海は初めてそれを読んだ際に、素直に驚愕させられた。これをたったひとつ年上の、しかも同じ高校生が書いていることに。
鳴海はそれから楓花が出版する作品をその日の内に全て近所の本屋で購入し、全てを読破した。
全ての作品に共通するのは、やはり主なジャンルがファンタジーだと言うこと。けれど、ジャンルは同じだがどの作品も似ることなく差別化が図られてある。作品それぞれに独自性のある世界が存在した。
言うなれば、鳴海は『藤咲カエデ』のファンであるのだ。
偽の恋人役を引き受けたのは、それにより楓花が描き上げる今までとはジャンルが異なるラブコメ作品を読んでみたい。そう言う、ひとりのファンとしての願望だった。
それから鳴海と楓花は、楓花が現代ラブコメを書けるようになるために、未知である恋愛を理解するために、本物の恋人関係の男女がするような水族館や映画館、イルミネーションなどのデートを交わした。
疑似恋人関係として過ごす日常が増えるごとに、楓花はラブコメ小説のプロットの進捗を一歩ずつ進めてゆく。
それからと言うもの悠羽は原稿を読む手を止めずに、そして最後の一ページを捲った。
物語は鳴海と楓花がこれまで交わしたデートを得て、プロットを完成させた鳴海と楓花がともに小説の執筆作業に取り組もうとするシーンが始まる。
疑似恋人として過ごしたふたりがどんな結末を迎えるのかと、悠羽は最後の数行に目を走らせた。
けれど、物語は不自然な場面での終わりを告げた。
「……?」
結末まで、描かれきられていない。
それはすなわち未完成の状態と言うこと。
明らかに不自然な途中段階での終わり方だ。単なる原稿の破損によるものなのか、それとも意図的によるものなのか。
悠羽はそっと原稿を閉じると、脱力したように椅子の背凭れにもたれかかる。どっかりと上半身の体重を背凭れに預けた。物足りなさが全身を支配して回る。
そこでふと、悠羽は空澄が教室を去る直前で口にしたあの言葉の意味を理解する。
――『内容がどうであれ、ね』のその意味を。
不自然な終わり方は、意図的なのだと。
「そういう意味か……」