春秋五覇考察・五
(六)晋の文公について・1
今回からは晋の文公です。さて、ここで一つ前置きしておきますと、覇者ごとに見ていくと最初に宣言した「春秋五覇考察」ですが、ピックアップするのは晋の文公と楚の荘王で終わり、自分なりの結論でまとめて終わりにしようと思います。
全員挙げるとさすがに数が多いのと、この三人が特に重要かと個人的に考えましたので。
他の君主についてはそのうち気が向けばここで取り上げようかと思っております。
さて晋の文公についてですが、まずは晋という国について話さなければなりません。
その先祖は周の開祖、武王の子、唐叔虞です。彼は兄である周の成王から唐の地に封建され、のちに子孫が国号を晋と改めました。
晋に文侯という君主が現れた。覇者となった文公とは別人である。
彼が死に、その弟、昭公が即位すると、文侯の弟である成師という人が曲沃という地を与えられた。いわば分家を認められたのである。だが成師の孫の武公という人物は晋の本家を滅ぼしてしまった。
しかも周王室はこれを容認し、武公を正式に晋の君主と認めたのである。
これが前六七八年のことである。ちなみにこの前年が、斉の桓公が初めて覇者となった年である。
春秋戦国時代の下剋上と言えば韓、魏、趙が晋を滅ぼしたことや田氏が斉を奪ったことがよくあげられる――まあ、そういう国主の交代劇が戦国時代になると興るのです――が、これらはいずれも庶民降格か追放くらいであるのに対し、この時の主従交代劇について『史記』晋世家は、
『曲沃武公伐晋侯緡、滅之』
『曲沃武功晋公緡を伐ち、之を滅ぼす』
とかなり直截である。
あくまで本家を攻めてその国家体制を滅ぼしただけであり、晋の主家筋を皆殺したわけではないのだが、穏やかではない。しかもその後、武公の子である献公の代に晋本家の公子を粛正している。
この時に、
『「故晋之群公子多、不誅、乱且起」乃使尽殺諸公子』
『故晋の公子の群多く、誅さずんば且に乱起きん』乃ち諸公子を尽く殺さしめん』
とある。あくまで粛正されたのは公子だけなのだ。
これは、さすがに元の主家の長を殺すのは遠慮したというよりも、既に故人であるから、ということだと思う。武功は晋本家の君主を殺して国を奪ったと見て間違いないだろう。
そして献公の代になると、いよいよ晋は周辺の小国を併呑していきその国土を伸張させていく。
この頃はまだ斉の桓公は存命であり、覇者として諸侯に君臨していたのは斉だった。しかし東方にある斉よりも晋のほうが周の王都に近いという地理的な要因もあり、晋はいよいよ盛況さを増していった。
晋の文公――重耳はこの献公の子である。
ただし重耳には他に兄弟がおり、さらに言うと献公は申生という子を太子に任命していた。このまま時代が進めば重耳に日が当たることはなかっただろう。
しかし、献公の晩年に晋に乱がおこる。
献公には驪姫という愛妾がおり、驪姫には奚斉という子がおり、驪姫はこの子を晋の跡継ぎにするために暗躍した。そして太子申生を姦計に嵌めて自害に追い込み、重耳は亡命を余儀なくされた。
献公は遺命で奚斉を太子とした。しかし大夫(大臣)たちが決起し、驪姫と奚斉、その郎党を皆殺しにしたことで驪姫の企みは頓挫したのである。
しかし、有能な公子は国内にいない。
決起を主導した里克大夫は重耳を迎えようとしたのだが、重耳はこれを拒んだ。これが謀略であり、帰国した途端に暗殺されるかもしれないと警戒したのである。
里克は頭を抱えたが、国外に逃げた献公の子は他にもいる。里克は夷吾という公子に帰国を願った。夷吾はあっさりと帰国した。ただし夷吾は当時、西方の強国、秦にいた。同母姉が秦の君主、穆公の后であったのでその縁を恃んだのである。
夷吾が名君であれば、やはり重耳は歴史の表舞台に名を現すことはなかっただろう。重耳は一亡命公子としてひっそりと死んだに違いない。
しかし夷吾は強欲で、節操のない人であった。
まず、帰国に際して手柄のあった里克に死を命じた。さらに、帰国に際して秦に、援助の礼として土地を割譲すると約束していたのだがこれを無視した。
さらに、重耳に刺客を放って殺そうと企んだ。国外にあっても諸侯に輿望のある重耳を恐れたのである。
このために、重耳の流浪生活が始まった。