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春秋五覇考察・四

(五)(せい)桓公(かんこう)について・2


 さて、前回は桓公の即位経緯とその逸話の中に出てくる「覇王」という単語について語りました。

 なぜ自分がこの「覇王」という単語を気に掛けるか。これはきっと、なまじ中途半端な知識を持っている故の気にしすぎではないかと思うのですが、気になったのでもう少し掘り下げて調べていこうかと。


 ではまず自分が「覇王」という言葉を気にする理由について。

 ずばり、「王」の部分が不可解なんです。「覇」とか「覇者」あるいは、「覇公」とかではいけないのかと?


 (一)で少し触れたのですが、基本的に春秋時代において「王」を名乗れるのは周だけです。楚、呉、越などの国が「王」を名乗っているのはあくまで自称です。そして覇者とは基本的なスタンスとしては周王室を補佐するという建前は崩しません。

 そして斉は太公望を始祖に持つ、周王室の中でも破格の功臣の血筋を引く国です。春秋時代のこの時に、周が没落したからといって独自に王を自称するようなことをすると思えません。というよりも、旨味がありません。

 諸侯の多くは周に敬意を払っているかその血を引いているわけです。わざわざそういった諸国と対立するよりも、自分の血筋を全面に押し出して周を助けるという体裁を取ったほうがよいでしょう。


 さて、改めて「覇王」について。どうにも『管子』を読んでいると度々見かけます。『管子』の成立時期は戦国~漢代にわたって多くの学者の手を経て緩やかに加筆、修正されながら成立していったと言われており、そのことを考えるとどうにも「覇王」という単語は桓公の時代にはなかったのではないかと自分は考えます。

 『管子』覇言に、


「得天下之衆者王。得其半者覇」

「天下の衆を得る者は王たり。其の半ばを得る者は覇たり」


 と、天下の人望をすべて掴む者を王、半分を掴めば覇=覇者としています。

 さらに、


「夫豊国、之謂覇。兼正它国、之謂王」

()れ国を豊かにす、之を覇と謂う。兼ねて它国 (他国)を正す、之を王と謂う」


 ともしています。

 このあたりのことは、どこまで言っても先ほど自分で書いた「『管子』は長い時代をかけて色々な学者の加筆を得て成立してきた」という話が刺さるのではありますが。

 要するに、都合のいいところは「管仲の言行録」として採用し、不可解な点を「後世の編集者の思想の介入」と見てしまいがちなんですよね。難しいところではありますが、『管子』覇言のこのあたりのくだりを見る限り、やはり「覇」と「王」は別物……というか、「覇」の先に「王」があるというのが管仲の思想だったんじゃないかなぁ、と思う次第です。


 ではなぜ『管子』中でこうも「覇王」という単語が頻出するようになったのか?

 根拠のない私見ではあるのですが、漢代に生まれた「覇王」という語がそれまでの「覇者」あるいは「覇」という単語と混合されたのではないかと思っています。

 個人的に「覇王」という単語を聞くとどうしても「西楚覇王」、漢の高祖、劉邦と天下を争った項羽を連想してしうまんですよね。項羽という人は最終的に劉邦に敗れはしましたが、とにかく激烈に時代を暴れまわった人でした。

 それで漢代、とりわけ前漢初期の人間にとって「覇」の字を見ると否応なしに「覇王」を連想させてしまった。そこが、『管子』に「覇王」の語が頻出し、また司馬遷でさえ鮑叔牙の言に「覇王」という言葉を用いた理由ではないかと妄想してしまいます。


 さて、「覇王」という単語についての考察はこの辺りにしておきましょう。

 今回の話はあくまで桓公についてです。


 鮑叔牙の進言に従い管仲を重用した桓公は飛躍を遂げます。

 管仲が桓公の元で行ったのは何においても商業の奨励であった。建国からして商業、産業と深く根付いていた斉であったからこそであろう。商いのための気質が官民にすでに備わっていたのではないかと思われる。

 『管子』には、


「知予之為取,政之宝也」

(あた)うるの取りたるを知るは、(まつりごと)の宝也」


 としている。つまり、税などを取ることを考えるのであればまず民衆に与えることから始めるべきということだ。

 そして『管子』には、現代にさえ通じるであろう普遍の名言、『倉廩実りて礼節を知り、衣食足りて栄辱を知る』が生まれるわけですが、そこは今回の話題に関係ないので割愛します。

 ともかく、管仲を得て斉が躍進したという事実があります。

 『史記』には、


「諸侯会桓公於甄、而桓公於是始覇焉」

「諸侯桓公と甄に会して、桓公の覇是より始まらん」


 とあるのが桓公の即位七年目のことであり、ここでは「覇」の一文字ではありますが、桓公が諸侯の盟主――覇者となったという事実を見てよいでしょう。ここからの斉は、盟下にある諸国が外敵に攻められた場合に斉の軍を派遣する、あるいは諸侯を率いてその外敵を討つという立場にあります。

 特に晩年には、


「戎伐周。周告急於斉、斉令諸侯各発卒戍周。」

「戎周を伐つ。周急を斉に告げ、斉諸侯に(おのおの)令して卒を発して周を(まも)らしむ」


 と、周王朝が外敵に攻め込まれたので諸侯に命じて周王朝を守るように命じたとあります。

 これこそまさに、「覇者」としての業績であり、このようなことを行うのが「覇者」であると言っていいでしょう。

 斉の桓公については今回で終わりです。桓公もまた、「覇者」として以外のところでは色々と興味深い人物ではありますが、「覇者」としての桓公を考察するという点ではこのあたりかと。

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