春秋五覇考察・三
(四)斉の桓公について・1
さて、ではここから五覇の個人についてピックアップしていきます。
まずは桓公からですが、ここはその出身である斉の国の話からしていくとしましょう。
前に書きました封建の話を覚えておいででしょうか? 周に対して手柄がある人に土地をあげますというやつですね。この時に太公望という人もまた土地をもらいました。太公望についてはずば抜けて有名ですし、史実的なことをここで深く書くのはやめておきましょう。
太公望は営丘という地に封じられます。今の中国山東省あたり。中国の東のほうですね。
『史記』貨殖列伝では太公望が封ぜられた時はまだ人口が少なく、「地潟鹵」であったとされます。
『漢辞海』によれば「潟」は「塩分を多く含んだ土地、「鹵」はこちらも「塩分が多く、穀物が育たない土地」と書かれています。要するに農業に向かない不毛の地だったということでしょう。この地の様子を見て、自給自足が難しいと見た太公望は商業を推進します。
工芸技術を磨き冠や帯など衣服、装飾品を輸出し、さらには塩などの輸出をして斉を栄えさせました。
こういう建国経緯があり、そこから周王朝が没落するまでおよそ三百年ほど。
斉の国に桓公という君主が誕生します。
この桓公、即位の経緯からして波乱に満ちています。
桓公は斉の襄公という君主の弟なのですが、当時はもちろん、基本的に君主の後を継ぐのはその子供です。しかも桓公は母親の身分こそそれなりですが若いほうでした。この条件だけを見ると次の君主になる芽はとても低いです。
しかしこの襄公の従兄弟に公孫無知という者がいました。この公孫無知は襄公の父にとても愛されていました。公孫無知の父親は襄公の父の同母弟であり、しかも公孫無知の父が死んだことを哀れに思って気にかけてやった。
まあこれくらいならいいでしょう。中国は文化的に身内というものを大切にします。
ですがこの時、公孫無知がどれくらい愛されていたかというと、
「其子曰公孫無知、釐公愛之。令其釐公秩服奉養比太子」
『其の子曰く公孫無知、釐公(襄公の父)之を愛す。其の秩服奉養を太子(襄公)に比しくせしむ」
ちょっと待て。
なお秩服とは身分ごとに許された服装のことです。仔細は省きますが、特定の身分にしか許されない装飾というものがありました。そして奉養とは目上を敬うことです。訳によってはこの四字を「秩禄・服飾・給与」としているものもありますが、まあざっくりと国内での待遇と考えていただければ大丈夫でしょう。
それを、自分の子供で跡継ぎとして指名した襄公と同じように与えたのです。
一国の君主のやることではありません。太子と同待遇を与えられば普通は増長するでしょうし、本人も周囲の人間も「もしや公孫無知を跡継ぎにするつもりでは?」と考えるでしょう。いらぬ軋轢が国内に生まれます。
まあ一応、襄公は即位するのですが、在位十二年で公孫無知にクーデターを起こされて殺されます。そりゃそうだろうなという感想ですね。
はい、ここから桓公の話ができます。
襄公という君主は、この人もそれなりに難ありな人でございました。加えて公孫無知という危険人物もいます。ということもあり、桓公――この段階では小白という名だったのですが、彼とその異母兄である公子糾という人物はそれぞれ母親の祖国に亡命しておりました。
割とこの時代ではよくあることでございます。
さて、そして兄である襄公は公孫無知に殺されました。しかしその公孫無知もまた臣下によって殺されてしまいます。
そして斉の大臣たちは次に誰を君主として立てようか、という問題に行き当たります。
そこで大臣たちが候補としたのが小白と糾です。この二人もまた当然、自分たちが君主となれるチャンスとあって帰国しようとします。
この時、糾の側近に管仲という参謀がついていました。彼は糾を帰国させるのと同時に、小白が斉に帰るルートに先回りして暗殺してしまおうと考えます。そして自らその暗殺部隊の指揮を執り小白に矢を射ました。
矢は間違いなく小白に命中しました。しかしそれは小白の体に当たらず、帯の留め金具に当たったとのことです。
いえ、これどうかと思いますよ自分も。ドラマかなんかかよと。しかし『史記』に書いてあるんですから仕方ありません、少なくとも司馬遷の集めた資料や伝承ではそういう風に記されていたのでしょう。
小白はここで死んだふりをし、さらに側近に命じて棺を用意して運ばせました。管仲はこれを見て安心し、小白は死んだと糾に報告します。糾はこれを聞いてゆっくりと斉に帰ると、なんと小白は生きておりすでに斉の君主となっていました。
そして糾は殺され、管仲は囚われの身となって小白――桓公の元に送られます。この時、桓公は管仲が自分に矢を射たことを知っており殺すつもりでいました。しかし桓公の側近に鮑叔牙という人物がいて、管仲を庇ったのです。
管仲と鮑叔牙は旧友であり、管仲は優れた人物であると熱弁したのです。
この時に鮑叔牙は桓公に、
「君且欲覇王、非管夷吾不可」
「君且し覇王を欲さば、管夷吾 (管仲)に非ざれば不可なり」
と言っています。
鮑叔牙は要するに「貴方が国を強くしたいなら管仲を登用しなさい」ということなのですが、ここで出てきた「覇王」という単語が気になります。
上記のやり取りは『史記』斉太公世家のやり取りです。
『春秋』左伝では、
「管夷吾治於高傒、使相可也」
「管夷吾は高傒より治むる。相(宰相)としむ可也」
と、管仲を鮑叔牙がフォローして桓公に推薦するところは同じですが「覇王」という単語は出てきません。そして公羊伝、穀梁伝ではそもそも鮑叔が管仲を推挙する話自体がありません。
では『管子』にまで幅を広げてみましょう。『管子』とは管仲の言行録とされており、成立時期は管仲の死後ではありますが、参考にはなるでしょう。
ここでは鮑叔牙の台詞に「覇王」という単語は見られませんが、その代わりに管仲が桓公に対して、
「君覇王、社稷定」
「君覇王たらば、社稷定まらん」
と言っています。
さてこの「覇王」という単語について――次回、もう少し掘り下げつつ桓公の業績について話していこうかと思います。