春秋五覇考察・二
(三)五覇について
では今回から当初のお題、春秋の五覇について話していきます。
春秋時代に覇者という国家間のリーダーが現れたことについては前回書いた通りです。
その中でも特に代表とされる五人の覇者を指して「五覇」と言います。具体的に名前を『国名・主君(即位~没年)』という形式で挙げますと、
斉・桓公(B.C.685~B.C.643)
宋・襄公(B.C.651~B.C.637)
秦・穆公(B.C.659~B.C.621)
晋・文公(B.C.636~B.C.628)
楚・荘王(B.C.614~B.C.591)
呉・闔閭(B.C.514~B.C.496)
越・勾践(B.C.496~B.C.464)
全然五人じゃねーかと思ったそこのあなた――自分もそう思います。
ぶっちゃけ、どの五人が「五覇」なのかわかりません。というか、それを選出する人の価値観や何を重視するかによってかなり変わります。ちなみにさらにややこしいことにこの他にも候補はいるのですがそれを挙げ始めると本当に際限がなくなりそうなのでこれくらいにしておきます。
そもそも「五覇」という言葉が最初に漢籍に現れたのはどこか?
おそらく「孟子」という儒学の書物だと思われます。自分はまだまだ無知なので、もしかしたらこれより古い、もしくは古いとされる文献に「五覇」という単語が出ているのかもしれません。もし自分がこの場で無知を晒しているのであれば指摘していただけると幸いです。
まあ置いときまして。
ちなみに、ここからしばらく唐突に名前だけ出して説明しない人名、国名が増えますがそれらについては流していただいて大丈夫です。興味がある方は調べていただければ幸いですが、説明し始めると余談に余談が重なってさらに冗長になってしまうのでご容赦ください。
とりあえず「孟子」に五覇という言葉が出てくるのは間違いありません。なのでそこから考えていくとしましょう。
ですが原文中では五覇について、斉の桓公以外の名前を出しておりません。
ではここでいう五覇の他の四人は誰なのか? とりあえず南宋の頃に書かれた「孟子」の注釈書、「孟子集註」を見てみます。
ここには、斉・桓公、宋・襄公、晋・文公、秦・穆公、楚・荘王と書かれています。
では次に唐の司馬貞が書いた「史記」の注釈、「史記索隠」を見てみましょう。同じ五名の名が挙がっていました。
もうこれでいいんじゃないか、という気持ちを抑えてもう少し。
「孟子」と同じく儒学の経典、「荀子」にも記述があります。といってもここでは五覇という単語は出てきませんが、春秋時代の代表的な君主を五人挙げているので、「荀子」的な五覇と見てよいと思います。
さてその五人ですが、斉・桓公、晋・文公、楚・荘王、呉・闔閭、越・勾践の五人です。穆公と襄公が消えました。いや、成立年代的には「荀子」のほうが古いので後の時代の有識者における五覇から闔閭と勾践が消えたというほうが正確ですね。
もう一つくらい言っておきましょう。後漢、班固の「白虎通義」。こちらは「荀子」より新しく「史記索隠」「孟子集註」より古い文献になります。
斉・桓公、晋・文公、秦・穆公、楚・荘王、呉・闔閭となっています。
うーむ、実にややこしい。ここでは秦・穆公が選ばれ越・勾践が除外されてます。
ではこのあたりで現代の研究者の著に答えを求めましょう。伊藤道治氏によりますと、
「(上記のように史料ごとの五覇を列挙)、しかし実際には五人というものをかならず必要とするものでもなく、また逆に五人に限定する必要もないのであるが、問題は、(中略)、呉王や越王を加えることは、同じ春秋時代といっても、その活躍する時代背景が異なるので、年代的には、楚荘王を一つの区切りとして、それ以後は別に考えたほうがよいであろう」※1
とされています。
確かに、上でまとめた即位~没年を見ると、荘王が中心――というかその前の五覇とも後の五覇とも全然時代が被ってないんですよね。晋・文公の在位中に楚荘王が生まれてる? もしかしたらまだ生まれてないかも、レベルです。そしてその没年には呉・闔閭も越・勾践も間違いなく生まれてません。
ともかく、「五覇」という言葉から考えていくのはこのあたりが限界のような気がしてきました。
というわけで次回からは上で列挙した覇者たち個人の業績について語りながら覇者というものについてもう少し深堀りしていこうかと思います。
引用
※1 講談社学術文庫『古代中国 原始・殷周・春秋戦国』貝塚茂樹、伊藤道治 2013年第14刷 p320-321