悪夢
「まぁ、お邪魔ではございませんでしたか?」
わたしの言葉にフレディリクさまが仮面をかぶり、優しい笑顔をこちらに向ける。
「テオドラ、ようこそ。カイルのお見舞いに来てくれたのかい?」
「はい、殿下のお加減が気になりましたの」
わたしがすべてを思い出してから、すでに三月が経とうとしていた。
わたしとカイルの関係に一切の進展がないまま春は終わりをつげ、乾燥した天気の良い晴れの日が続いたかと思うと、気が滅入る雨が長く続くような、本格的に暑くなる前の不安定な時期を迎えて、とうとう、カイルが体調を崩した。
もともと混ぜ物のせいで痩せて健康体とは言い難かった彼が、この時節に体調を悪化させるのは毎年のこと。
でもあの料理長はいなくなったし、今年は乗り切れるかもと内心期待もしていたけれど、さすがにすぐには無理だったらしい。
まぁ、来年こそは大丈夫なはずよ。
わたしは持ってきた見舞いの品――教会の回復祈願の祈祷文が刻まれた蝋燭を使用人に預け、すすめられた寝台の脇の椅子にこしかけ、隣のフレディリクさまをそっと見上げる。
使用人たちは後方に控えていたから、気が付かなかったのだろう。
ぞっとした。
声をかける前のフレディリクさまの瞳は、まるで視線だけでもこの子を射殺せないかと探っているかのようだった。
弱っている子どもに向ける目じゃないわ。
わたしの視線に気づき、フレディリクさまの瞳から一瞬にして剣呑な輝きが消える。不穏さをごまかすようにことさらに優しい声色で、
「カイルはあまり丈夫じゃなくてね、毎年のことなんだ」
そう言ってわたしを安心させるように微笑む。その笑顔を目にして、
“だから今年こそ死んでくれないかと思っているのだよ”
そのような文章が字幕のように頭の中を流れた。
いけない。彼の本性を知っているわたしの脳が勝手に翻訳をしてしまう。
彼の心の内の思いなど微塵も気づかぬふりをして、わたしは言葉を返す。
「そうだったのですね。たしかに、思い返せば前の年にも殿下はお倒れになられましたわ」
「だろう? だから、テオドラもそのような顔をせず、安心なさい」
はい、というわたしの返事を最後に会話が途切れる。協力関係であるとはいっても父を通じてのことである。また、彼とわたしのあいだに共通点はないため話題もない。
静かな部屋でジジッと蝋燭の芯が燃える音だけが響く。
それらは光が直接カイルの顔に当たるか当たらないかの絶妙な位置に、並べられている。カイルは灯りの中でないと眠ることができないのだ。
「――さて、私はもう行くよ。カイルが良くなったら、またお茶を一緒にしよう」
「はい、そのときを楽しみにしております」
頭を下げるわたしの耳に、扉の閉まる音が聞こえる。フレディリク様の退出で、部屋はいっそう静まりかえった。
フレディリクさまがわざわざ使用人をひきつれて、部屋を出ていったからだ。婚約者のわたしに気を遣い、しばらくの間ふたりきりにさせてあげようという体で。「何かあったら呼びなさい」と言っていたが、実際のところは、わたしが何かやってくれるのではないかと期待してのことかもしれない。
「首でも締めろっていうつもり?」
するわけがない。いまここでカイルに何かあったら、犯人はわたししかいないじゃないの。
策略で罠を張る父とは異なり、フレディリクさまが人を使ってことを為すのは、たんに自分の手を汚したくない小心者というだけにすぎない。権威がないからこういう性格になったのか、こういう性格だからより権威なく軽く扱われるのか。どちらが先かはわからない。
己の人生の不公平さに煩悶とし、甥の引き立て役に甘んじるのはもううんざりだと思いながら、笑顔の仮面ですべてがうまくいっているふりをする。フレディリクさまにとってはいまの一日、一日が屈辱を重ねる日々でしかないのだろう。
そのようなことを考えていると、ふと空気のなかに、枯葉が舞い落ちるようなかすかな音が聞こえた。今度は蝋燭ではない。カイルからだ。
「殿下、なにか仰って?」
「……っ」
幻聴ではなかった。やはりカイルの唇がかすかに動いている。
目を覚まし、なにかを欲しているのかもしれない。水とか氷菓子だとか、そういったものを。
わたしは使用人が入ってくる気配がないのを確認してからベッドに乗り上げ、そっと耳を寄せた。
「ちち……うえ……、は……はう……え……」
苦しそうな吐息のあいだに紡がれる言葉。愛しい両親への呼びかけ。
夢を見ている。そしてそれは幸せな夢ではない。
彼がいまつらそうなのは、病気のせいだけではなかったのだ。
きっと、ご両親のあの最期の瞬間を繰り返し繰り返し夢見ているのだろう。
事件から10年。全てが奪われた日の記憶はカイルの奥底に深く刻まれ、いまだに彼の心をずたずたに切り裂こうと、ことあるごとに襲いかかってきている。
小説でもたびたび描写があった。
訳も分からぬまま押し込められた暗く狭い場所で、幼いカイルは膝を抱えてうずくまっている。決して声をあげてはならないと言い渡されていたけれど、そもそも恐怖で震えて歯の根がかみ合わず、音を口にすることもままならなかった。
おびえながらもカイルははげしく後悔していた。父と母を置いてきてしまったこと、自分が両親を見捨てたことを責め続けていた――実際には、おふたりがカイルを隠しただけなのだけれど。
暗い闇の中でたえまなく響き続ける悲鳴と怒号、救いを求め泣き叫ぶ声。扉の向こうで展開される殺戮の音にせめて耳をふさいでいれば良かったのだろうけれど、父と母が生きている痕跡をきき逃すまいとカイルは凶行の中でも耳を澄ませ続けていた。
のちに彼はヒロインにこう語っている。
余りにもその場所は闇が深すぎて、以来、死神の手のように暗闇を冷たく感じていたのだ、と。
やがて耳に届く、自分を探し回る複数の足音。誘いだそうと、父と母の最期の言葉を声高に叫ぶ男たち。
父上と母上が亡くなったなんて嘘だ。でもさっきからふたりの声が聞こえない。探しに行かなくては。いまならまだ助けられるかもしれない。でも、罠だったら? 父上と母上からも騎士が声をかけるまでじっとしているように言われている。
幼いカイルの頭をさまざまな考えがめぐる。
そうしているうちに襲撃者たちの騒々しい音はカイルのいる前を通り過ぎ、遠ざかり、いつしか静かになっていた。そしてとつぜん、
「ああ、こんなところにいたんだね」
なんのまえぶれもなく扉が開かれ、腕が伸びてくる。
無理やり外に引きずり出され、パニックに陥る中、自分も死ぬのだという恐怖と、死ねば父と母のところへ行けるのだという安堵が同時に彼を包みこむ。
一気に鼻腔に流れ込んでくる、むせ返るような錆びた鉄のにおい。視界に映る、バケツの中身を撒いたかのごとき壁の真っ赤な血糊。引き裂かれた窓掛けにぶら下がっている、いっぽんの腕。倒れて崩れたろうそくの明かりに照らされる、知っていたはずの者たちのいままでに見たことがない形相の死に顔。
そして、一面の血の世界の中で感じる、彼を抱きしめる唯一のたしかな温もり。
「もう大丈夫だよ、カイル」
彼を外へ連れ出したのは、叔父だった。カイルを心配して駆け抜けてきたのだろう。叔父もまた血だらけであった。
抱きしめられたその肩の向こうで、ひとりの男が剣を振り上げるのをカイルは目にする。
「おじうえ!!」
カイルの叫びに、フレディリクさまはとっさにカイルを抱えこむ。
剣はフレディリクさまの肩にわずかに食い込んだところで、床に落ちる。
背後から繰り出された別の剣に男は貫かれていたからだ。腹から生えた白刃が引き抜かれ、血しぶきをあげて男が倒れる。生臭く、そしてあたたかなものがカイルの顔に降りかかる。
「殿下、ご無事ですか!?」
駆けつけてきたのはカイルの騎士たちだった。彼らが足でもって崩れる男を仰向けに転がし、更にその腹に何本も剣を突き立てる。
苦しそうに胸をかきむしり、かはっ、かはっ、と倒れている男の喉から空気が漏れているのが耳に残る。カイルと血走った男の目があう。合うと言っても、男のほうは、もはやカイルを認識できていなかっただろうけれど。
幼いカイルにも男の目から命のともしびが消えようとしているのが分かった。むなしく宙にのばされた腕は力なく、喘鳴はたよりなく、かぼそく、はかなく……やがて力尽き、消えていった。
両親や親しい人の喪失にかさね、人が死ぬ過程を生々しく目にしたことで、カイルの精神はもたず、彼は気を失った。
このとき、カイルはたった4歳だった。
――彼の心はまだ、全てを失ったあの日に閉じ込められたまま。
悪夢と記憶の境は溶け合い、ヒロインに出会うまで、カイルはずっとこの夢に悩まされ続けるのだ。
小説を読み、実際に何が起こったか、どのような夢を見ているか詳細に知り得たとしても、彼の苦しみをまるごと理解することなどできない。
けれど、いまのカイルのつらそうなさまを見ていれば、彼にとってどれほどの地獄の日々だったのかは想像がつく。
助けてくれたと思っていた叔父が、男の背後に騎士隊の姿を見て計画が失敗に終わったことを悟り、共犯を悟られないためにとっさに彼の盾になっただけだと知ったときの絶望も。
そして、それを救ってくれたヒロインに縋りたくなるのも。
また、そのような状況によって自分に転がり込んできた王位にたかろうとしているのだから、カイルが父やわたしに嫌悪感を抱くのももっともなのだと思う。
「わかっているわ。あなたがわたしを嫌うのは間違っていないのだと」
真相を知り、わたしたち親子を心の底から憎むこともふくめて。
少しでも心を許してほしいと願うのは、わたしのごく勝手な都合にすぎない。
カイルの苦し気な呼吸が、胸に刺さる。
「……大丈夫よ、カイル。ここには怖いものなんてないわ」
自然と口からそう漏れた。
熱でうなされるときに悪夢を見るのは、脳の混乱や、弱っているときに襲われてもなんとか対処できるよう緊張状態を保つためという原始的な生存本能からではないか、との論説を読んだことがある。
それが本当だとしたら、あまりにも酷い。こんな子どもが熱で苦しんでいるのに、まだ苦しまなければならないなんて。
「大丈夫よ、カイル」
カイルの体に、心に届くように同じ言葉を重ねて語りかける。
だから緊張を解いていい。安心していい。悪夢を見る必要なんてないの。
顔に貼りついた前髪を払おうとして、彼が汗だくなことに気がついた。
「たしか、たらいに水がはってあったはず」
脇卓のひたしてある布巾で、せめて彼の顔の汗だけでもぬぐってやろうと視線をずらした瞬間、
「えっ……!?」
とつぜん強いちからで荒々しく寝台に引き倒された。いつのまにかわたしの身体にカイルの腕が回されていたのだ。
まさか、寝たふりをしていただけだったの?!
さっきのわたしのつぶやきを聞いていて、いまここで逆にわたしが絞め殺されるのではと恐怖にかられ、身体が強張る。
彼の手がわたしの首に伸びる瞬間に備え、ちからを腕に蓄え身構えた状態で、しばらくのときが過ぎた。……何も起こらない。
カイルの胸に抑えつけられたままそうっとなんとか首を巡らせ顔を確かめると、相変わらず目は閉じていて表情は苦しげだったけれど、目を覚ましている様子はまったく見られなかった。
わたしを抱きしめる腕も、こちらをどうにかしようという意志が込められていると言うよりは、溺れる者が岸辺の草を掴むような必死さがあった。
安堵に全身の力が抜ける。
「夢の中では誰もあなたを助けてくれないのね」
せめて、もっと早くヒロインに出会えればいいのにと思う。
みつけて連れてきてあげたい気持ちもあるけれど、それは無理だった。あくまで小説の主人公はカイルで、描かれているのは彼の人生。出会ってからのヒロインとの交流は語られるものの、彼女が過去どこにいたかなどという手がかりはなかった。しかも他国だ。
それにいずれ男爵令嬢として登場するけれど、彼女は駆け落ちした男爵の娘夫婦の遺児。いまは己の出生も知らず平民として市井で暮らしているはずで、探しようがない。
「……カイル、いまだけわたしで我慢してちょうだい」
わたしは、怖いものはないのだと呪文のようになんどもなんども繰り返し囁き続ける。
どうか暗闇をさまよう彼に、少しでも届き、彼の心がやわらぎますように。
そう願いながら。
* * *
「ぜんっぜん目を覚まさないわ」
あれからしばらくして悪夢が去ったのか、ちからがゆるんだ隙を縫ってカイルの腕から抜け出した。
それからときどき汗をぬぐう以外は、こうして椅子から動かなかった。
もしかしたら、ふと目を覚ましてわたしが看病しているのに気が付き感動するかも、などと目算していたけれど無駄だった。
もうこの部屋を訪れてから四半刻は経ったと思う。さすがに使用人たちも戻ってくるだろうし、わたしも部屋に帰る時間だ。
「いっそわたしが来た証でも残しておこうかしら」
じつのところ、私室の一番奥、カイルのこの寝室にまで入ったのは初めてだった。去年は伝染るのがいやで見舞いの品を侍女にもっていかせて終わりだったから。
今年はちゃんと来た証拠に、たとえば、そっとリボンをベッドのすみにでも置いておくとか。
一瞬そのようなことを考えてしまって頭を振って追い払う。浮気女の本妻への宣戦布告じゃあるまいし、いまの関係では感動してもらえるどころか弱っているところに寝首をかきに来たと思われるだけにちがいない。
わたしも予想外の目に遭って、疲れているのかもしれない。おかしなことをまた考えつく前にさっさと退散した方がよさそうだ。
カイルを起こさないよう、使用人を呼ぶためのベルは使わずわたしは扉に向かった。
「おやすみなさい、カイル。早くよくなってね」




