宰相の最期
生まれてきたばかりの彼女のことをかすかに覚えている。果物籠より軽く、片腕に収まるほどの小さな生き物。
葡萄の粒のような瞳がこちらをまっすぐにみつめてきたこと――それがどうだ。
いつのまに、これほどまでになったのか。自らの足でまっすぐに立ち、自らの頭で判断し、行動している。
なによりもあの目に強く宿る、まぶしく、未来を思わせる光は。
「……大きく……なったのだな」
驚愕と戸惑い、さらには同定しえない感情が胸中でまざりあい、音となってこぼれ落ちる。
聞こえたのかは判断がつかない。ただその瞬間、看守に追い立てられるように牢をあとにする彼女が一瞬だけ驚いたように振り返った。それが、テオドラ・ラノビア――宰相の娘の最後の姿であった。
* * *
冬のさなか、吐く息は白く、降り注ぐ陽光もか細い。
刑場には平民、貴族、貴賤に関係なく大勢の人間が、かつて宰相であった男の最期を見届けるために集まっていた。それらの中で、一望できるようひときわ高く、露台のように張り出た席に黒髪の青年の姿があった。
……若いな。
男は声に出さずに呟いた。
これから王になるというのに感情を消しきれていない。苦悩を表し、妻となる者の父親を殺すことに苦痛を覚えている表情であった。己の両親を殺されたというのに。
冷徹な判断を迫られるときはこれからいくつもやってくる。あれでは、はたしてそれらに耐えられるのか。
青年の隣には見えなかったため、男は刑場を見回した。どこにも娘の姿はない。
……正解だ。やはり、あの子は賢い。
父親に背を向けることによって、ラノビアとはかかわりがないと周囲に示してみせる。これから王族となる彼女に最も必要な行為であった。
いや、たんに父親に一切の興味がないだけなのかもしれないと思い直し、同時に、娘が気持ちを押し殺して来なかった場面をとっさに頭に浮かべた己に自嘲の笑みがこぼれた。
ここにきて父親面とは呆れたものだ、と。
「最後に述べておきたいことは」
「……後悔はない」
強いられるでもなく膝をつき、しかし毅然と頭を上げて、男は言葉にした。
大勢の人が死んだきっかけをつくった人間が口にしてよいものではないのは、承知の上で。
いかに責められようとも、おこなったのは自分なりの正義で、そしてすべては覚悟の上だった。
よって死を前にして挙措を失うことも、いまさらの恐れもない。
ただ娘の顔が頭に浮かぶ。赤子と、しっかりと己の意思で立つ少女のふたつの姿が。
男の記憶の中にはそれだけしかなかった。少女が婚約者となり王宮に行くまでのあいだ、少なくとも生活をともにしていたというのに覚えているものはまったくといっていいほどに存在しない。
赤子のとき、どのように泣いていたのか。少女のとき、どのように笑っていたのか。
彼女と己の結びつきを胸の内に探っても浮かびあがってくるものは皆無だった。
それでも、あの子が存在するためだったのだとしたら、自分の人生すべてに意味があったのだ。
大人も子どももかまわず火をつけられ殺された日、間に合わなかった日。神はいないのだと、正しいだけではどうにもならないのだと思い知った、あの日。
人の肉と脂肪が体液とともに炙られていくにおい。焼かれた喉から絞り出される叫び。泣き声、悲鳴、怒号、懇願――忘れたくとも忘れえぬ、こびりついてはなれないあの地獄を目にしてからようやく、救われた心地だった。
断罪の場であるにもかかわらず、男は今、満ち足りていた。
手枷が一旦外され、邪魔にならないよう後ろ手にはめ直されるあいだも抵抗せず、血が染み込んで黒ずんだ断頭台にみずから首をよこたえる。
男は穏やかに目を閉じ、ただ娘の人生を想った。自分のいない、自分が決して見届けることのできない彼女の人生を。
たとえ誰がなんと言おうとも、彼女自身にすら否定されようとも、この瞬間、ここにいるのは宰相ではなく、ただひとりの父親であった。口端にわずかに笑みをたたえ、男は最後に呟いた。
「娘よ……お前の人生に幸多からんことを」




