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宰相の娘  作者: 衣々里まや
17歳
28/50

工作

部屋は落ち着いた色調で整えられている。


厚手の窓かけと音を吸収する毛の長い絨毯。床は深みのある焦げ茶色で、あらゆる調度品と色調が揃えてあった。家具は磨き上げられ、革の椅子はつややかで、天井に届くほどの書棚ですら最上段までまんべんなく手入れされ輝いている。


埃も淀みも騒音もこの部屋とは関係がない。部屋の主が求めないものは、この場所に立ち入ることをいっさい禁じられているかのよう。


その主が重厚な机のむこうから、顔をあげることなく私に声をかけた。


「珍しいこともあるものだ、我が娘よ。お前が私の執務室を訪れるなどとは」


「本日は、お父様にお許しをいただきたく参りました」


「何の許しというのだね、テオドラ」


「ニンス卿に少々早くご退場いただく、その許可を」


「……なるほど。――何処の家の者を擁立するつもりだ」


説明せずとも、父は私が何をしようとしているか分かったらしい。


そう。直接手を下すだけが、この世界の手段ではない。駒を動かすことで政治的にニンス家を潰し、間接的にレジナルド親子も追い詰める。それこそが私たちが用いる戦い方である。


「ガードナー家の長男、エドガー様を」


答えた瞬間、空気が揺れたように感じた。私は頭を下げているからわからなかったけれど、父が一瞬、笑ったように思えたのだ。


「――12、出してやろう」


「5でじゅうぶんです」


12票とはなかなかの大盤振る舞いだ。けれど、それをそのまま受け取っていては宰相の娘などやってはいられない。


父は私の返答に今度こそ声をあげて笑った。私の答えが気に入ったらしい。


おもてをあげなさいとの言葉に従うと、父はこちらを向き、口元にわずかな笑みをのせていた。


「いいだろう。お前の好きにしなさい。予算は必要か?」


「わずかばかり、お許しをいただけるならば」


ほんとうは自分で工面できるけれど、私が資産を持っているのは秘密だから。


「家令に伝えておく」


「感謝いたします。もうひとつ、お願いが。当日、お父様のお友達の方々には第三区通りを使わないでいただきたいのです」


「そちらも伝えておこう」


「ありがとうございます」


久しぶりの顔合わせでも、互いの息災を尋ねる言葉は微塵もない。実に私たちらしい親子の会話だ。


「では、用も済みましたので、失礼いたします」


「――テオドラ」


部屋を立ち去ろうとしていた私を父が引き留める。


それもまた計算づくの配置なのだろう。窓からの光を背に立ち、こちらに向かって微笑む父は本当に美しかった。


「ノヴェルティ侯爵を訪ねなさい。私の友人というわけではないが、この度は必ずやお前の力になってくださることだろう」


なぜ、と思わず声が出そうになったのをかろうじて堪えた。


どうして父の口からエメリー嬢の家の名がでてくるのか。あちらは王権派筆頭の人物だ。


まさか……ノヴェルティ侯爵は父の側の人間なの? あれほどまでに父と対立していながら?


侯爵家の名は小説にも出てくるけれど、裏切りの素振りは一切なかったし、そういう匂わせも伏線も描かれていなかったというのに。


「承知いたしました……お父様」


どこまでも落ち着いた父を前に、動揺のあまり辞去を告げる声が震えないようにするので私は精いっぱいだった。


* * *


馬のいななきと御者のたしなめる声が、人気ひとけの少ない通りに響く。


窓からうかがってみれば、一台のみすぼらしい馬車が道路をふさぐようにして停まっていた。車軸が折れでもしたのか、後方の車輪が両側とも外されている。


「困りましたね。目的のお店はこの先のようなのですが……」


ロニヤが故障した馬車のそばで所在無げにたたずんでいる男性を見て、眉根を寄せる。替えの部品を待っている状況から時間がかかりそうだと判断したのだろう。


「急いでいるわけではないから構わないわ。修理が終わるのを待ちましょう」


指示されたのは場所と日付のみ。時間は明示されていなかったのだから。


最悪、歩けばいいだけのこと。


そう思っていると扉がノックされ、お嬢さま、と外からルーデンスの声がかかった。


「この馬車の持ち主がお詫びをなさりたいそうです。あちらの店にて、お茶をご馳走させていただきたいと仰っておられます――」


ルーデンスが手で指し示した店は通りのすぐ目の前のもので、小綺麗な喫茶室に見えるけれど窓には窓かけがかかっていて中が一切見えず、明らかに怪しい。


おまけに店の入り口には、立派な体躯の男性がひとり、見張るように立っている。彼が身に着けているものは上等で、そこから店内にいると思われる人物が、馬車の外装に反してそうとうの貴人であると推察された。


「ご招待を受けるわ」


馬車を降りた私とロニヤに続き、ルーデンスが従う。しかし、


「お嬢さまおひとりで願います」


入店しようとしたところで私と従者ふたりのあいだを切り離すように手をかざし、戸口の男性が言う。ロニヤが抗議の声を上げ、ルーデンスがすかさず身構える。


「ふたりとも、かまわないわ。表で待っていてちょうだい。ロニヤは念のため馬車に戻っていて」


もともと目的の場所にはひとりで入るつもりだったから、こちらとしては好都合だ。外に出る以上、ふたりを伴わないわけにはいかず、さりとてノヴェルティ卿が敵か味方か分からない状況で、へたにふたりに情報を与えてカイル側に混乱をもたらしたくはなかった。


「……なにかございましたら、すぐにお声がけを。かならず参ります」


ルーデンスは中にいる人物に自分の存在を知らせるように大きな声で言うと、戸口をはさんで男の反対側に立ち、待機の姿勢を見せる。足を開き、手を後ろで組んではいるけれど、有事の際はこの姿勢から即座に剣を抜き、切りつけることができるのを私は知っている。


踏み入れた店内は薄暗く、灯されている蝋燭も頼りなかった。


とはいえ、室内は清掃が行き届いており、埃っぽさなどはない。今日一日だけ借り受けたのだろう。普段使用していると思われるテーブルと椅子はすべて脇に寄せて積み上げられ、ゆいいつ、私に座るよう促す、あからさまな一脚だけが中央にぽつんと置かれている。


その一脚に腰かけ待つことしばし、やがて店の奥から人の気配と床のきしみ、それから台車を押すような重たげな音がきこえてきた。


椅子が窓辺を向いて置かれていたのは、振り返るなという暗黙の指示だろう。相手が見えないことに多少の不安があるけれど、私は音が近づいてくるのをじっと待った。


すこしののちに私の横にぬっと何かが並ぶ。台車ではなかった。車椅子だ。


さらに背後にはそれを押しているもうひとりの気配がある。


そのもうひとりは車椅子の人物に優しく語り掛ける。


「おじいさま、わたくし少々思いだしたことがございますの。少しばかり、席を外してもかまいませんかしら?」


間違いなく、エメリー嬢の声だった。私を見かけたらわざわざ通りを渡ってでも一言嫌味をいわずにはおれない彼女が、今、私など存在しないかのように振舞っている。


「おお、そうかね。儂は構わん。行ってきなさい。今日はよい天気だ、ほんとうによい天気だ」


コツコツと去っていく足音。


残されたのは、私と車椅子の人物だけ。


細く、枯れ枝のように小柄な老人だ。あまりにも華奢だから、身じろぎしただけで骨のきしむ音が聞こえてくるような気がする。


誰かと疑問に思うまでもない。車椅子の貴人はエメリー嬢の祖父、つまり先代のノヴェルティ侯爵、そのひとだろう。


先々代の陛下と親友といえるほどに親しく、しかし早々に政界から身を引き、息子に爵位も譲って以降、侯爵家主催の宴はおろか王室の公式行事にすら一切出てこなくなった。


屋敷にひきこもって悠々自適な生活を送っているのだという噂と、とうに亡くなっているという説が同時にもちあがっていたほどで、私も顔を合わせたのは初めてである。


……生きていたのね。


その御大が自ら姿を現し、互いの護衛騎士すら立ち入らせないだなんて、いったい何を話すつもりなの。


「よい天気だ。そう思いませんかな、お嬢さん?」


「……え、ええ、ほんとうに良く晴れていてすがすがしいですわ」


呟きに近い、外から遮断された暗い部屋の中で交わす言葉とは思えないあまりにも独り言めいた言い方だったので、反応が遅れてしまった。


「そうですな。まさに、狩りにふさわしい」


「仰るとおり、狩りによい季節になりましたわ」


本来、狩猟は秋冬が基本である。


しかし、素知らぬ顔で応じた私に相好を崩し、ひざ掛けが滑り落ちるのも気にせず前侯爵はこちらに身を乗り出し、私の顔を覗き込む。


漂う薬草と消毒薬のにおい。年齢のせいか体調が良くないのか、ぜぇぜぇと言葉の合間に不規則な呼気が漏れてもいる。


「狼や牡鹿、熊に狐……たくさんの獲物がおりましょう。お嬢さんは何を狙っておいでか?」


反射的に恐怖で身を引きそうになったのをこらえて、私は答えた。


「――斑尾羽根まだらおばねおおとりを落とす心算です」


言うまでもなく、ニンス家の紋章に描かれている意匠のことである。


その瞬間、空気が目に見えて変わった。


「それはまた――たいへんに素晴らしい獲物だ!!」


膝を打ち、今にも糸が切れてしまいそうに感じていた前侯爵の目が炯々(けいけい)たる光をはなち始める。獲物を見つけた獣のごとく。


ささやくようだった声に笑いが含まれ、喜びの興奮に呼気が激しく乱れている。


「ならば、当家にちょうどよい狩猟道具がありましてな、ぜひ、お譲りいたしましょう。そうと決まれば、すぐに用意せねば――誰か、おらぬか!」


喜色に満ちたかすれたかけ声に、さきほどのエメリー嬢とは異なる足音が現れる。店の奥で待機していた従者だろう。


彼もまたエメリー嬢と同じく、私なぞ存在しないかのようにふるまい、落ちたひざ掛けを拾い直すと、主の指示に従って車椅子を押して部屋を出て行こうとする。


あなたたちは本当は誰の味方なの?


その背に訊ねたいけれど、きけるわけもなく。


私は振り返りたいのを我慢して、ただぎしぎしと遠ざかっていく音を見送ることしかできなかった。


「――テオドラ様、ご無事でしたか!?」


一切の気配が消えたのを確認し、店の扉を開けた私を、ルーデンスがほっとした顔で出迎える。


ずっと馬車の小窓から様子をうかがっていたのだろう。同時に私の姿を見つけたロニヤが飛び出してくるのが遠くに見えた。


見回せば、あの屈強な見張りも姿を消している。


「何も問題はないわ。お茶をごちそうになっただけ。さぁ、帰りましょう」


「で、ですが……」


ロニヤが本来行くはずだった通りに目をやる。馬車でいまだふさがれた通りを。侯爵家のものではなく、一日限りで雇われたどこかの一般人なのであろう馬車のそばの男性だけが、まだ残って暇そうにしていた。


「かまわないわ。用は済んだはずだから……多分」


ここまで手の込んだことをして、ノヴェルティ家はなにを確かめ、伝えたかったというのか。


理解しがたい密談から数日たったある日。その答えがやってきた。


「お嬢様、贈り物が届きました」


「どなたかしら?」


「それが……差出人は不明でございます」


ロニヤが閉じられたままの長方形の箱を抱えて、見せるように目の前に持ってくる。それは両腕を広げたほどの幅があった。


あまりにも不審なものはとうぜん門のところではじかれるが、私宛てであったことと大層立派な外装でもあることから、とりあえずお伺いをたててからにしようと運ばれてきたのだろう。


「廃棄いたしましょうか?」


「いいえ、開けてちょうだい」


ロニヤが廊下で待機しているルーデンスを入室させる。


もしものさいは盾になるためだろう。下がった私の前をふさぐようにロニヤが立ったを確認して、ルーデンスが慎重に開封し、中を検める。


「――弓、ですか?」


後方から顔をのぞかせ荷を確かめて、ロニヤが呟く。誰が、どうして、と口調に現れている。


中に納められていたのは小ぶりな女性用の弓だった。美しい装飾もなされ、かなりの上級品であることが見て取れる。


念のためルーデンスが手に取り、おかしなものが施されていないか確認し、弦をはじく。ビィンと空気を揺らし、波紋のようにあたりに音が鳴り響いた。彼は頷いて、


「普通の弓のようです」


「ああ、そういえばある方に、狩りに行ってみたいとお話したのよ。うっかりされて、お名前をお忘れになったのね。ありがとう、ルーデンス。送り主は分かっているから大丈夫よ。さがっていいわ」


いつでもお呼びください、と言ってルーデンスが廊下へ戻る。


私は受け取った弓をあらためて確かめる。小柄な女性の手にも扱いやすいよう小さなつくりだが、隅々にまで施された芸術品のような装飾はたしかに淑女への贈り物に相応しい。怪しいものではない。


「素晴らしい弓だわ。狩りに行くのが本当に楽しみ。ロニヤ、弓が痛まないように本番のときまで大事に保管しておいてもらえるかしら?」


丁重な手つきで受け取り、私の言いつけどおりに別室へと向かう彼女を見送ってから、


「本命はあちらではないのでしょう? さぁ、何を伝えたかったのかしら……」


私は弓がおさめられていた箱を探る。あちこちを触れて確かめて、やがて内張りの一部に切れ込みが入っていることに気が付いた。


「……中になにかあるわ」


差し入れた指に布とは異なる感触をえる。隠されていたのは薄い紙束だった。手のひらサイズほどの大きさの紙面に、几帳面な字で貴族の名前と情報がいくつも記されている。


「この人たちは……」


物語の後半、見切りをつけいずれニンス卿から離反するものたち、そして後ろ暗い行動が故にゆさぶりをかけられるものたちの名が連なっていた。言い換えるなら、ニンス一派を瓦解させるために私が小説の知識を使ってこれから離間させようと思っていた人物たち、ということになる。


「つまり、このリストは本物ということね」


どういう意図でこれを送ってきたのかなど、考えるまでもない。この情報を使いニンス一派に致命の一矢を射こみ、崩壊させろと言ってきているのだ。父もまた、この矢がノヴェルティ家にあることを知っていたのだろう。


「でも、なぜ、わざわざ私に?」


自分で使って動けばいいだけのことなのに。


ノヴェルティ卿はニンス卿と私を争わせて共倒れを狙い、己の利に導こうというのだろうか。しかし、それならばこのリストが本物であるということに説明がつかない。これは確かに、ニンス一派を一方的に殴れる正しい情報なのだから、これを手に入れた時点で私のひとり勝ちが決まってしまう。


やはり、ノヴェルティ卿は父の側の人間であるということだろうか。王権派の筆頭で、カイルが信を置き、私も全く疑いを持っていなかった人物が。


「もしくは――」


獲物の名を口にしたさいの、あの老いに陰った目が爛々と暗い光を宿しはじめたことを思い出す。


たとえ一時的に私、ひいては政敵の宰相側が有利になったとしても、ニンス卿を潰したいほどのなにかがノヴェルティ家にあるということだろうか。


「どちらにしろ、いまはニンス卿を射落とす方が先ね。ノヴェルティ家の問題はそのあとにしましょう」


もともと知ってはいる情報だけれど、おかげで、ニンス一派についての情報源を偽装する手間が省けた。大胆に動いても、父から疑いをかけられることもない。


準備はととのったというわけだ。


* * *


今回の選挙は、市場でいうならばパイの奪い合い。狙う議席は3つある。


言うまでもなく、こちらとしてはひとつは父に、そしてもうひとつはカイルに、最後のパイを私がいただく予定。3席ともカイルに渡すこともできるかもしれないけれど、それをしてしまえば父の警戒が強くなってしまう。


もちろん私が得た席に座るのはエドガー氏であり、最終的にはカイルが支持者を得ることとなるのだけれど。


「お嬢様、ちゃんと囁いてまいりました。あの子は口が軽いですから、きっとあっという間に広まりますよ!」


「そう、ありがとう」


「でも、あんなに話しちゃって大丈夫ですか? わたし、ほんとに全部言っちゃいましたよ?」


「ええ、かまわないのよ」


私は微笑みかけ、硬貨を一枚、彼女の手に握らせる。あなたのその少し喋りすぎてしまうところも織り込み済みだから、と心の中で付け足しつつ。


情報戦は重要だ。秘めておきたいものや不利なものを止めるだけが手ではない。たくさんの無意味な情報と嘘とほんの少しの真実を混ぜこませて、流す。多すぎる情報は精査しなければならず、その中から正しいものを見極めるのに時間がかかる。まったく何も届いてこないより、たちが悪い。


今回のようにタイムリミットがある場合は、特に。


こういうとき、彼女と彼女のお友達はうってつけだった。そして彼女以外にも、役目を終えた使用人たちが続々と部屋に戻って来ては報告をしていく。


「お嬢様、ただいま戻りました。正しいと判断できた場合、この手を預ける――と言付かってまいりました」


「うまくいったみたいね。あなたにお願いして良かったわ」


「こちらにも返信がありました」


「読んでちょうだい」


「――あの子は二度と戻らぬものと思っておりました。この御恩は決して忘れません。夫に必ず伝え、報いてみせましょう」


「夫人の大切な飼い犬は見つかったみたいね。よかったわ」


西部の5領はニンス派だけれど、土地柄、ニンスを支持していてもうま味は少ない。小説にも出てこない人たちだから絶対の自信はなかったものの、メリットを提示すればこちらに寝返るだろうとの推測は間違っていなかったわけだ。


リストをもとに働きかけをおこなっているニンス派の人物らも含めて、これでそうとうの票が見込めることとなった。


「すごい……ですね」


隣に立つロニヤが呆然と呟く。


「どうしたの、ロニヤ? 何か気になることでもあって?」


「いえ、あの、ニンス派は評議院最大派閥ですから、それが、つついてみればこれほどまでとは思わず……」


ロニヤの疑問はもっともだと思う。けれど、根は至極単純なことなのだ。


「あなたは、今度出馬するニンス卿のご子息を知っていて?」


「たしか、ご長男でいらっしゃいますよね。あまりお噂をうかがったことがなく……」


「ええ、目立たない存在よ。気が弱く、決して当主にも向いていないわ。政争にもね。けれど、ニンス卿がそのような人物を自分の後釜にしようとしているのは、ちからのない実子を据えることで実質的な権限は自分がもち続けたいからよ」


ようするに父と同じ、傀儡政権を狙っているということだ。


子息ももういい年齢なのに家督の一切を譲っていないというのも含めて、死ぬ最期のその瞬間まであらゆる手綱を手放してなるものかという意思の表れだった。権力というのは一度味わってしまえばそれほどまでに人を虜にするものらしい。ウロマ・ギリーヌの言葉が心底身にしみる。


「ニンス卿は評議院に加わって以来、40年以上議会を牛耳ってきたわ。王太王后殿下の兄である外戚の立場を利用してね」


「40年もですか……!?」


自分の年齢の倍近く、評議院をほしいままに動かしてきたのだと知ってロニヤは驚愕の声をあげた。


「ええ、驚きよね。あなたは40年間ずっと這いつくばらされ、ようやくそれが終わると思っていたところにまだ続くと言われたら、我慢できて? もう、みなが心の底ではうんざりしているのよ。私は今、すこしその背を押して回っているだけ」


とりわけ弱小貴族は権利こそ有するものの行使する力はないために、半ば一部の特権階級の踏み台と化しているのが現状である。軽んじられた彼らの不満はたまりにたまっていたはず。


政治の初歩的な会話をロニヤとかわしているところへ、べつの使用人がやってきて告げる。


「お嬢様、お客様がお見えでございます」


来客の予定はないはずなのに、と応対してみれば父の派閥の人間だった。正確には、父のところに潜り込んでいるニンス卿の手の者、ということになるのだけれど。さらにいうと、父もそれは承知のうえで泳がせていたはず。


「さ、宰相閣下に、お嬢様にお会いするよう申しつけられまして……」


「まぁ、お父様から?」


「は、はい……私は、本当はニンス卿の派閥の人間です……ですので、お役に立てるかと」


驚いた。


父は私にひとり、間諜をゆずってくれたらしい。おまえの好きに使いなさいということだろう。


目の前の男性もニンス卿を裏切るだなんて父となにか取引をしたのかと思ったけれど、その口ごもった様子から脅迫だとわかった。父に何か知られたくないものを知られてしまったのだろう。ご愁傷様ね。


いくらでも使いようのある手札を父がわざわざ切ってくれただなんてと驚きもあるけれど、今回の私の行動は逐一報告がいっているはずだから、これはそのことに対するボーナスなのだと思われる。つまり私は上手くやっていて、父の機嫌は非常に良いということだ。


とはいえ、目の前の男性は父からの便利な下げ渡し品であるとともに、私のところに送り込まれた爆弾でもある。


脅迫で人は操れても、いつまでもつうじるものではない。オルトのようにいつか終わりが来る。限界がきて、爆発する。そうして困ったことになれば、私は父を頼らざるを得ない。


別に父は私を疑っているわけではないだろう。ただ誰も信用しておらず、ゆえに家族でさえ首輪をつけ鎖につなぎたがる。父はそういう男なのだ。


また一方で、目の前の人物も脅されているのなら、なにかに困っていたということだ。場合によっては力になれるかもしれない。機は逃さず、恩は売れるときに売る。鉄則だ。


案の定、私が父からもニンス卿からもの解放をもちかけると、


「その見返りに私は何をしろと仰るのですか?」


散々こき使われてきたのだろう、搾取され続けてきたことに倦んだ暗い声が響いた。


「どなたでもお好きに投票していただいて結構です。父に訊ねられたらわたくしの指示に従っていると報告を。ただし投票日、会場へは第三区通りをとおっていただきたいのです」


沈黙が続いた。


それは、考え込んでいるというより、私が続けてほかにも要求する項目を述べるのを待っているように思えた。私が口を閉ざし、要求はそのひとつのみだとやっと気が付いた彼は拍子抜けしたように、口にする。


「――……それだけ?」


「ええ、それだけです。以後、いっさいわたくしが何かをあなたに求めることはありません」


彼は弱い立場であるがゆえにニンス卿の言いなりにならざるを得ず、父に弱みを握られたがゆえに私に売られた。けれど、爆弾を抱えさせられるのはこちらもごめんだ。


私はロニヤとルーデンスがいればいい。カイルの絶対的な味方として本当に信用できるこのふたりさえいれば、それで。


それに彼はそれだけと言っているが、私にとってはその行動で十分なのだ。


不正投票の指示をうけたわけでもなく、危険なことをしろと命じられたわけでもない。これはイーブンな取引であり、彼に不利になるような何かが起こるわけでもない。だから、ほんとうのほんとうにそれだけでいいのかと彼は念を押した。その問いを重ねたことで同意したも同然だと半ば表明していることに、彼はまだ気づいていなかった。


通りを通過するだけですべてから解放されるのだとようやく理解できた彼の答えはひとつだった。


投票当日、彼は議場に現れなかった。来る途中、馬車が事故による渋滞にはまってしまったことで、会場入りするのが大幅に遅れてしまったのだ。そして、同じようにその日、あちこちのニンス派の貴族が同じ通りで渋滞に巻き込まれた。


エドガー氏は、当選した。

※ウロマ・ギリーヌ……3話「王子と摂政」参照。

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