最後の年
ろうそくで煌めくシャンデリア。扉の向こうから流れてくる音楽と集まった人々のざわめき。並んだ使用人たちが次々に頭を下げ、私たちを見送る。
その先で振り返り、こちらに微笑みかけるのはカイルだ。
「さぁ、ティア」
カイルがそう言って私に手を差し伸べる。
ティア――私の愛称である。
なんと、とうとう彼から愛称で呼んでもらえるほどの仲になったのだ。
きっかけは、修学を終えた彼が落とした一枚のモザイク紙だった。午後の交流会に間に合うように走って戻ってきたために、しまい忘れていたらしい。
落としたわよ、と声をかけると同時に拾った私は、モザイク模様に見えたものが実は紙一面にびっしりと書かれた「テオドラ」という文字であることに気づき、戦慄した。
字は彼らしい、のびやかで若干右上がりながらも教養のあることをしらせる達筆さではあるものの、ここまで上も下も隙間なく書き込まれていると怖い。おまけに名には丸やらバツやら棒線やらがひかれてもおり、まるで呪符のたぐいのように見える。
彼の機嫌を損ねるようなことを、なにかしてしまったのかしら……。
思わず固まってしまった私の手から、彼が今までに見たことがないほどのすばやさで紙を奪う。それから無作法に気が付き慌ててごめんと一言付け足し、誤魔化すように言った。
「テ、テオドラというのは長くないか?」
あまりにも脈絡のない突然の問いかけだったけれど、もう慣れたのでとりあえず話を合わせてみる。
「そうかしら? 家族からもテオドラと呼ばれているし、問題があるとは思えないのだけれど……」
だいたい、長いというのは“スリフィヤ=サルネリ=コンラッタ”というような名のことを指すのではないだろうか。
これはかつて、長すぎて署名が面倒なのと恥ずかしいという理由で改名したいと裁判を起こした、実際にいた貴族の名前だ。名をこの世から抹消したいと裁判を起こしたはずが、あまりの特異性ゆえに有名になってしまい、いまだに事例として語り継がれているという悲しい一件でもある。
その“スリフィヤ(略)”に比べたら“テオドラ”はとても短いと思う。とくにこの名で不都合を感じたことはないし、呼びにくいと告げられたこともない。
そう伝えると、カイルは急に目を輝かせ、
「つまり、誰からもテオドラ以外の名では呼ばれていないということだな?」
「ええ、そういうことになるわね」
そもそも私に親しい友人はいないし、言うまでもなく家族とだってそういった微笑ましい間柄ではない。
「で、では――……ティアというのはどうだろう?」
「愛称、ということかしら?」
ああ、と頷いて彼は気に入るかどうか確かめるようにちらちらとこちらの表情をうかがいながら、
「王聖文字ならテーダやドーラになるだろうが、お前はエルゲネスを好むだろ? ならば、こちらの綴りと読みで考えるほうが相応しい。もちろん、もし嫌だというなら、候補は他にもいくらでもあるが……」
若干の早口で一気にまくしたてた。
たしかに私はエルゲネス語が好きである。本格的に習ってみれば、前世の母国語の文法に似通っていて理解しやすいというのがあったから。それにほとんどの人に通じないというのもいい。ラパント卿との授業は公用語禁止、会話はもっぱらエルゲネス語で交わすことになっている。
それにしても教養語ではないため授業から外れているとはいえ、カイルも多少はエルゲネス語が理解できるはずなのに、いいのかしら。
エルゲネス語でティアは“最愛”や“至上の愛”を意味する。
もともとは親しい人のあいだで交わす手紙の締めの言葉として使われていたのが、いつしか恋人同士だけで交わされるものへと変化し、やがてティアという語句そのものが“たったひとりの大切な人に捧げる言葉”という役割をもつようになった。
……周囲に誤解を与えかねないのではないかしら。
まぁ、古語だからいまや誰も使っていなくて、意味もほとんど知られていないため、彼も気にしていないのであろう。
「嫌だなんてあるわけないじゃないの。ええ、気に入ったわ」
もちろん、カイルがいいのなら私に文句などない。少なくとも愛称を考えるほどには、距離が縮まっているという証拠なのだから。
とくに当人が提案したものなら、今後、私を呼ぶたびに愛着も深まるはず。来たるべき日には、処刑するのを思いとどまってくれる公算が大きい。
これはいい傾向と思ってよいのではないかしら。
「では、これからはそう呼んでもらうよう、他の人にも伝えるわね」
そう言うと、今まで嬉しそうにしていた彼がとたんに勢いよく首を横に振って、
「だ、だめだ! 俺が付けたのだから、俺だけが呼ぶ権利がある!!」
と主張しだした。
命名権ってそういうものだったかしら……?
でもまぁ、名付け親の彼がそう言うのだからそのとおりにしておこう。希少性が増すほどに愛着もやはり深まるはずで――……。
「――ティア、どうした?」
カイルに声をかけられ、私ははっと我に返る。
いけない。新年のお祝いの場なのに、うっかり懐かしい思い出にひたってしまっていた。
「ご、ごめんなさい。なんでもないわ。それより、いかがかしら?」
私は気を抜いていたのをごまかすためにドレスの端を掴み、全身を見られるようカイルに向けてゆっくり回ってみせる。
本日の衣装は、祝賀らしく吉兆の色となっている。上等に幾重にも重なる白いフリルを覆うのは深紅の薔薇のような色合いの生地。そこにレースを真似た金糸の刺繍が全面に乗っていて、装飾としての金の飾り紐を結ぶのは祝いの花を模したピンクの立体刺繍。濃紫の腰帯にも織り上げる際に金糸が混ぜられているらしく、動くたびに蝋燭の明かりを反射してどこもかしこもきらきらだった。
感想を求めて彼の顔を覗き込むと、
「あ、ああ……その、き、きれいだ……と思う」
そう言ってカイルは顔を背ける。それで感想は終わり、続く言葉はない。
普段習っているはずの豊かな詞藻は、どこにいってしまったのかしら。ヒロインが登場した時のために私で練習しておかなければならないというのに、あいかわらずの口下手ぶりだ。それともこういうものはいざ本番になったら、するりと口から出てしまうものなのかしら。
けれど、カイルらしいと言えばカイルらしいし、「悪くはない」を思えばかなりの成長をしている。
私は改めてカイルを眺める。
カイルは主人公だけあって、やっぱりカッコいい。成長して小説のとおりの麗しい青年になった。筋の通った鼻筋と、涼やかな目元を覆う長いまつげの端正な顔だち。混入されていた薬の影響はもうどこにもなく、長い手足に、剣の稽古も欠かしていないから身体も引き締まっている。
ちょうど稽古が終わった直後の彼を訪ねてしまったときのことをおぼえている。汗を拭いていたもろ肌の彼に出くわし、淑女らしくすぐに顔を手で覆ったけれど、柔らかに隆起する筋肉は美しく、汗をかいている姿すら草原を吹き抜ける風のように爽やかだったのが、脳裏に一瞬にして焼きついてしまった。
小説の私が本来のお役目を忘れて彼に執着していくようになったのも分かる気がする。いずれヒロインのものになるというのが分かっていても、見惚れてしまう。
前世に覚醒してからじつに4年の月日が経った。
あれほどまでに険しかった彼の視線にはいまや一片の鋭さも含まれていない。
今ではカイルは私を友のように扱ってくれる。すくなくとも私はそう感じている。
また、カイルの私への態度が柔らかくなって、私の王宮での扱いも一部よくなり、動きやすくなった。
もちろん、全ての人間が私への警戒を解いてくれた訳ではないし、王室派のほとんどの人たちにとっては、私は相変わらず宰相の娘として敵視されていることに変わりはないのだけれど。
あとはこの1年が勝負だ。13月におこなわれる≪聖日祭≫で全てが決まる。
そして、その時には私はもうここにはいない――それを考えるとなぜか少しだけ胸が痛む気がする。
私は感傷を振り払うために、
「ソタン卿の再婚相手の名はご存じ?」
カイルに問うた。
アンダーの未亡人、とすぐさま彼から正しい答えが返ってくる。私たちはこうしてクイズのように貴族たちの情報を交換、確認し合っている。もしカイルが応対にまごつけば私が、私が躓けばカイルが、互いに助けあえるように。こうやって私たちはふたりで魔窟を乗り越えてきたのだ。
必要な情報を交換し、微笑みを交わし、頷き合い手を取り合って私たちは開かれた扉から会場へと足を踏み入れる。すかさず、
「殿下の忠実なる臣下として、謹んで、年頭の御祝福とともに王室の益々の弥栄を衷心より祈念申し上げます」
マントをさっと翻し、ひとりの男性がカイルの足元に跪く。
顔を見ずとも間違うことなど決してない。父である。
私もカイルもあれからずいぶんと成長したけれど、父だけはまるで老いとは無縁のように見目が整ったまま時が止まっていた。今では私と並んだら、年の離れた兄妹と言っても通じてしまいそうなくらいに。
周囲の女性の熱い視線がカイルと父に交互に注がれているのが、振り返らなくてもわかる。
父は年始のしきたりの長い挨拶をかわし、カイルからの返礼を受け終えると、つぎに私の手を取って自らの大きな手で包み、手袋越しに口づけする。
「これはこれは、何処の美しい姫君かと」
「まぁ、お父様ったら」
父は分をわきまえた従臣よろしく一歩下がり、目を細め、並ぶ私とカイルを眺める。娘の成長をたたえる普通の親のように。
実際、内心は複雑なことだろう。
私がカイルと距離を縮めること自体は喜ばしいことではあるものの、カイルは父が好まない方向へ――為政者として立派な青年に成長しつつある。これではたとえフレディリク様が失敗し、王妃の父として政治に携わるとしても傀儡のように望む動きはしてくれそうもない。
ここまで本当に大変だった。
前にも述べたとおり、小説で描かれるようなことに関しては知っているからいいけれど、それ以外の出来事に関しては些末なこととして語られなかっただけなのか、私の行動により生じてしまった変化なのか判断が付かない。父が関係していることでそれがゆがみから生じたものなら、結果はどちらにも転ぶ可能性がある。
父を倒すまでカイルにつまずいてもらうわけにはいかない。そして、宰相という立場ゆえ、政治的な出来事にはほとんど父が関与している。
本の知識だけで予測や理解ができるほど政治世界は浅くない。
私は父の影響を見極めるため、カイルを支えるため、水路を得るのに必要な好感度をかせぐため、ラパント卿の元で必死に政治を学び、法を学んだ。もともと優れていたわけではなかったのだけれど、やはり賭けられているのが自分の人生ともなれば、人間、変われるものなのだ。もちろん、導き手となるラパント卿がじっさいに素晴らしい方であったという大前提のもとにだけれど。
その頑張りもあったのか、カイルの周囲からは危険なものが徐々に排除され、父はますます手を出しにくくなった。
またいっぽうで、小説の知識を先生から学んだものと称して父に投機などの経済的な助言を与え、私は己の有用な役を印象付けた。おかげでがめつい卿の援助なくとも我が家は富を――別の言い方をすれば父が犯罪に使うことができる資金を――得ることができた。
一時的に我が家が黄金を積み上げるくらいは許してほしい。どうせすべて国庫に入るのだし、小説とは異なる動きをしている以上、父の役に立っておかなければ私だっていつどうなるか分からないのだから。
それに、表で手に入れたものは見えない場所で援助されたお金のように大胆には動かせない。くわえて、我が家に出入りするおおよその額面を把握できるから、私も父の行動を予想しやすくなった。
いよいよ最後の1年。
もう幼いという手段は通じない年齢になってしまった。私にとっても最後だけれど、これは父たちにとっても最期の年となるのだ。
ねえ、お父様、私の考えはあのときから変わっていないわ。
私は父の真っ直ぐな背を見つめ、改めて決意を胸にする。
「……私は生き残り、そして、あなたにはひとりで処刑台に行ってもらう」
カイルは秋に、テオドラは翌年の春に生まれています。正確には2章開始時点でカイルは17歳、テオドラはまだ16歳です。