黎明
窓に歩み寄った教育係も異変に気づいたようで、眉を顰めた。
小さく舌打ちが聞こえてきた。
「仕方あるまい、行ってくる。
お前は顔出しせずに隠れていろ、見つかればどうせ碌なことにならん」
言われるがままに窓から離れる。
教育係は眉間を揉みながら扉に歩み寄り、出る直前で振り返った。
「ああそうだ。
レーテ語の書き取りを終えたら今度はそこの、そうその書物の十五節を翻訳しておけ。
戻ったら目を通すので手を抜くなよ」
「……分かりました、師範」
一人残された部屋で、窓を一瞥してため息を付く。
その下の喧騒について、気にならないと言えば嘘になる。
だが、極力危険や面倒事には近づかないというのがシノレの信条であり、身を守る術だった。
階下で起きているだろうことを意図的に意識から締め出し、手元の紙に集中することにした。
レーテ語はこの教団では、教主が用いた聖なる言葉として扱われている。
先日の叙階の儀式でも耳にした。
現在も、主に騎士団の一部で使われているらしい。
騎士団では土地や身分によっても使う言葉も変わるが、教団では取り敢えず公用語と、このレーテ語さえ必要最低限使えれば何とかなるそうだ。
シノレも半年で学習を進めてきたが、やはり付け焼き刃の感じは否めない。
それでも辞書を使って時間をかければ、何とかなるようにはなってきた。
手を伸ばして頁を捲る。
指定された十五節を確認し、出てきた見覚えのある主語に少し目を見開いた。
『黎明』についての一節だった。
『黎明』は千年以上前に地に降り立ち、天が創り上げた神剣を携えて魔獣に立ち向かったと言われる英雄である。
騎士団の一の騎士、大公家の守り神として名を馳せた『黎明』は、大型の強力な魔獣たちを次々撃破しながら破竹の進撃を続け、遂にこれを封印した。
その活躍ぶりは凄まじく、それこそ人知を超えたと言っても過言ではないほどの力だったそうだ。
それによって空と地を覆い尽くすほどであった魔獣は一度打ち払われ、どうにか人類が救われたのだとか。
『黎明』が実在したとする主張もあるが、大方の場合伝説交じりの御伽噺という括りである。
しかし、かの英雄が振るったとされる神剣は今も現存し、大公家に代々伝えられているということだ。
『黎明』は語られる度に、様々に姿を変える。
男だったとも、女だったとも、一人だったとも、複数人だったとも言われる。
そもそも人間だったのか、自然現象だったのかすら判然としない。
そもそも大崩壊前後の歴史があやふやな上に、千年かけて伝承される内に尾鰭背鰭が大量についたので、今となっては何が本当かも分からないのだ。
空を飛んだとか、剣の一振りで山を崩したとか、遥か彼方の事象を見聞きしたとか、怪しい伝承は数知れない。
ワーレン教における『黎明』の位置づけは受肉した御遣いにして殉教者というものだ――因みに聖者も、定義としてはこれに続く神の使者であるとされているらしい―
大崩壊によって混迷に堕ちた世界に神が最初に与えた慈悲と奇蹟、それが『黎明』による魔獣の征討であると教団は定義する。
その意義を巡って、『黎明』こそを神と位置づける騎士団の異教徒と、それはもう根深い対立があるそうで――まあそれは良い。
これを訳すことが、今シノレのすべきことだ。
分厚い辞書を手元に引き寄せ、記されている文面をじっと睨む。
ざっと目を通し、まず分かる部分を拾い上げて、そこと他の繋がりを探るように範囲を広げていく。
どうやら『黎明』が黒竜を屠った伝説の一場面らしい。
竜は今では伝説にしか現れない、最強種の魔獣である。
一呼吸で街を焼き払い、尾の一振りで一帯を薙ぎ払ったとされる化け物であるが、そんなものを単騎で倒したという時点でこの英雄の出鱈目さが分かる。
緑竜を相手取った七騎士ですら、それぞれの配下千人単位の犠牲を出して抗戦し、何とか打ち破ったというのだから。
それにしても、妙に同語句の繰り返しが多いと思ったら、功を讃える美辞麗句が随所に挟まれているようだ。
訳すとすれば、まずはここからだろう。
辞書を捲ってその辺りを無心に調べていく。
書かれているのは何とも馬鹿馬鹿しい、空想か白昼夢のような話であるが、言いつけられたからには真面目にやらなければいけない。
「えーと……『黎明』、神剣を、振るいたり……而、ひ、光……の、柱が天を、裂きて……?」
慣れない作業に雑念が追い払われ、文面に意識が没頭していく。
いつしか階下は静かになっていた。




