聖者の訪問
彼の優先順位は明瞭だ。
カドラス本邸の一日は極めて規則正しい。
誰もが決められた時間に起床し、決められた予定を狂いなくこなし、そして眠る。
その日も食堂には、麗らかな朝の日差しが差し込んでいた。
静かな空気の中、ルファルは家族とともに食事を取っていた。
日々当主として忙殺される彼にとって、貴重な憩いのひと時である。
日に日にすくすくと育っていく息子と娘の姿を見ることは最大の喜びの一つだ。それなのに。
「リゼルド殿の叙階が済んだそうですね。
もうそろそろご身辺も落ち着いた頃でしょうか……」
朝の明るさに似つかわしいはきはきとした声で、そう言ったのは長男のユミルだ。
明るい緑の目が生き生きと、差し込んでくる光を弾く。
少年は癖のある金髪を揺らし、期待に満ちた面持ちで父に問いかけた。
「父上。リゼルド殿とは、次いつお会いできるでしょう」
そう問う息子のきらきらした目を直視できず、ルファルは目を背ける。
「……ユミル。お前は猊下のお役に立つため、寸時を惜しみ研鑽しなければならぬ身だ。
成人が近づけば嫌でも会う機会は増えよう。
余計なことは考えず、今はただ己を鍛えることに励むのだ。
本日は聖者様もいらっしゃるのだからな。
くれぐれも粗相のないように」
「父上……はい、分かりました!!食事が終わったら、すぐに鍛錬に行ってきます!!」
少年は、そんな父の答えにやや残念そうな顔をするが、すぐに溌剌とした顔で笑う。
それからは教練であったことや教師との会話などの話題に花が咲かせたのだった。
「御機嫌よう。皆様お元気そうで、宜しゅうございました」
その日の午前、まだ日が昇りきらない内に聖者が訪れてきた。
勇者どころか従者の一人もなく、完全に一人での訪いだった。
一方のカドラス側は家族揃っての出迎えだった。
「聖者様。ご来訪、誠に光栄に存じます。
夏の催事にお目にかかったきりでございましたわね。
よくぞおいで下さいました」
「ありがとうございます。
ですがユフィア様、どうぞお楽になさって下さい。
大事なお身体なのですから、どうか無理をなさらずに。
恙無くお産を終えられますよう、私からも祈りを捧げましょう」
「聖者様……ああ、何よりの力づけでございます」
臨月近い妻は大きな腹を抱え、傍には娘が寄り添っている。
その肩に手を置き、短い祈りを捧げる聖者の姿に、ルファルは目を細める。
彼が聖者に抱くのは、純粋かつ素朴な信仰心だ。
聖者は神の使者。
先代教主が提唱したそれを、彼は素直に信じている。
実際にその姿を目にするだけで広がる多幸感と心の震え、それが神の慈悲、教徒の祈りへの応えでなくて何であろう。
聖者が祈りを終えるや否や、息子が待ち切れないという風に口を開いた。
「聖者様。今日は勇者殿をお連れではないのですか?
僕、是非お会いしてみたいです!!
きっと今度連れてきて下さいね!」
「それは……はい。ユミル様と親しくさせて頂ければ、私としても嬉しゅうございます」
「……ユミル。聖者様を困らせてはなりません」
「だって母上。リゼルド殿が認めた方なのでしょう?会ってみたいです!!」
そんなやり取りを眺めながら、「困ったものだ」とため息をつきたくなる。
今年十になる息子は、何を間違えたかあの狂犬を「素敵で格好良い年上のお兄さん」などと思っている節がある。
本当に意味がわからない。
どうしてこうなった。
いずれ嫌でも正体を悟るだろうし、束の間の幼い憧れくらいは守ってやるべきだと、頭では思うのだが。
息子がリゼルドの名を出す度悪寒がして堪らない。
大事な息子が汚染されていくような気がする。
「……ユフィア。聖者様とお話したいことがある。
ルーサを連れて、部屋を出なさい」
「あなた……」
夫人は、案じるように夫に声を掛ける。
それでも促すと、静かに娘を連れて去っていく。
臨月も近い妻に、妙な心労をかけたくなかった。
「父上。僕はどうすれば良いでしょう」
「残りたければここにいると良い。
ただし、口を挟まぬように」
そう言いつけて聖者に向き直る。
相手も要件を察したのか、静かに居住まいを正した。
それを受けて、ルファルも単刀直入に切り出す。
今回の聖都の諍いについてどのような姿勢を取るか、彼は既に決めていた。
「聖者様。畏れながら聖者様におかれましては、レイグ殿の庇護をお求めになるが最善と存じます」
「…………それが、カドラス家の総意でございますか」
「如何にも。誤解されたくはないのですが、何も私情で物を言っているわけではありません。
親子ほどの年の差であれど、私は彼のことを武人として認めております。
その言行が如何に狂っているとしても、能力の確かさは疑うべくもありません。
自らの目で確かめたことであり、楽団と対峙する上で欠かせない――その点において、この私以上に頼もしいと認めております」
その言葉に、息子が目を輝かせるのが視界の端に映った。
そう、ある一点で認めてはいる。
だが大事な跡取り息子が、謎にリゼルドに懐いているのは看過できない。
あれに毒されようものなら、どんな悪影響を及ぼされることか。
(下手をすれば、息子の代でカドラスが終わるかも知れぬ……。
本当に、あそこは親子揃って……)
元々リゼルドの父とは折り合いが良くなかった。
そのことからリゼルドについても、偏見を通して見ていたという自覚はある。
だが、相手がそれに輪をかけた狂犬であったと気付いたのが五年前だ。




