シュデース家の娘
「父上。どちら?」
シュデース家当主セルギスは、そう尋ねる娘の声に手を止めた。
澄んだ美しい声音にそぐわず、その口調は倦んだような端的なものだ。
随分久しぶりにその声を聞いた気がする。
手に取っていた本を一度置き、顔を上げる。
視線の先には開いた書物を膝に抱えた娘がいた。床に落ちた影が緩やかに動き、死んだような虚ろな目がこちらを向く。
話しかけてくるとは、珍しいこともあるものだ。
そう思いながら答えを返す。
「耳が早いのだな、ディア。
最近はずっと籠もっていたと聞くが……
ああ、頭痛はもう良いのか?」
それに頷き返した娘は、無言のまま目線で答えを促す。
それにため息をつきたくなった。
(……白々しい。頭痛だと?)
大方聖者が出席し、挨拶回りをすると知っての仮病であろうとセルギスは目を眇めた。
場所は館の書庫である。
広大で古びた匂いのするこの空間は、ここ数年で殆ど娘の私室のようになっていた。
使徒家の令嬢でありながら世捨て人同然に生きている長女であるが、祝賀に湧きかけた聖都を冷えさせた争いについては聞き及んでいたらしい。
何しろ三年前の一件がある。
どちらも自分から譲ることはないだろう。
「…………」
レイグとリゼルドの、決着もつかないまま三年間燻ってきた確執。
それが噴出しての、此の度の騒動であったが。
彼の取るべき立場は決まりきっていた。
「無論リゼルド殿にお味方するとも。
シュデースとしては、それが自然なことだ。
ファラード家のソリス殿も、同じ判断をなさるだろう」
セルギスは貴族というものを承知していた。
貴族派の家に擦り寄ったところで、元は余所者であるという隔意を払拭することはできないと。
たかだか二百年では、数百年ものの貴族たちの意識を変容させるには不十分である。
向こうもわざわざ騎士団出身でもない我が家を取り込もうとはしないだろう。
良くも悪くも傲岸なのだ。
だが同じ使徒家である以上、必要以上に侮られるわけにもいかないのだ。
不均衡は歪みに繋がる。
シュデースは教団においては物流や金の流れを管理し、滞りなく循環させる。
また僻地を開発し、資源を取り出し人が住み良いように整える。
そのような役目を負っている。
大仰でなく、非常に重要な役目であるが、それでもこの聖都での疎外感からは逃れられない。
まして七十年前、戦火によって一度本家が絶えている事実がある。
シュデースはそのことから一段低く扱われるきらいがあり、ヴェンリルの次は自分たちだろうという予感があった。
元々聖都は、騎士団出身の貴族派が幅を利かせる土地であり、さして居心地がいい場所ではない。
この流れを止めなければ、肩身は狭くなる一方だ。
医師団出のシュデースとしても、ヴェンリルへの差別は決して他人事ではなかった。
放置すれば明日は我が身だ。
だから端から、聖者の存在はシュデースにとって好ましくなかった。
降って湧いた成り上がり者が使徒家に並ぶなど。
他の家にとっては沽券に関わる問題だが、シュデースの場合死活問題だ。
こんな前例ができてしまってはますます立場が危うくなる。
凋落の芽を摘むこともできない現状が愉快であるわけがない。
(何よりも、この子が聖者様を……)
娘の幼い頃を思い出す。
親の欲目もあるだろうが、天真爛漫で才気に満ちた子供だった。
それが変わってしまったのが六年前――聖者を前にしてからだ。
完全にそれまでとは人が変わり、理解を超えた奇行に及ぶようになった。
それを思うだけで、娘の虚ろな目を見るだけで、苦いものが込み上げる。
他の教徒にとってどうあれ、彼にとって聖者は災厄の化身でしかなかった。
自分が健在な内は良い、だが次代はどうなる。
娘は聖者を疎んで、先日の宴席にも出ようとしなかった。
その変貌によって家臣たちにも不安が広がり、成人していながら縁談話も全く進捗がない有様だ。
息子でなく娘であったことがせめてもの救いであるが――息子であれば、家督争いに発展しかねなかった。
意気の無い者、能力の足りない者が使徒家当主に就くことを許すほど、教団の現状は安泰でも盤石でもないのだ。
いつの間にか、すぐ傍に娘が立っていた。
足場の高さが違うため、重なる目線は殆ど水平になる。
幼い日の溌剌とした光などどこにもない、虚ろな目に覗き込まれる。
生きている。確かにここに存在する。
それは分かるのに、彼女は既に一度死んでしまったような気がしてならない。
聖者が恐ろしい、会いたくない、あれはあってはならないものだと、そう泣き喚いて、崩折れるように意識を手放したあの日。
それきり、娘が子供らしい表情を見せることは、二度と無かった。
「…………お前は何を考えているのだ」
それに娘は虚ろに笑む。
幼さを色濃く残す顔は、しかしまるで老人のようだった。
「聖者様のことを」




