動揺
静謐な大神殿に、どよめきと動揺が広がっていく。
教徒たちは儀式の場であることも忘れて顔を見合わせ、束の間目で会話し合った。
楽団領とは、あらゆるものの坩堝のような混沌とした地である。
全てが目まぐるしく動き、一時として停滞することがない。
騎士団の秩序、教団の統一、医師団の静謐とは程遠い。
およそ横の繋がりというものが存在せず、連携も救援も禄にしないので、攻められた場合は各個で戦うことになりがちだ。
と言うか楽団というのは、年がら年中内部闘争に明け暮れながらついでに他勢力とも抗争しているような、殆ど魔境と言って良い場所なのだ。
何しろ自分以外の全てが敵、一致団結などという概念とは無縁の場所である。
他所と戦っていても、隙に乗じて後背を撃たれるなど日常茶飯事であり、背後にも重々気を配らねばならない。
人口や物量において劣る教団や騎士団が勢力の均衡を保てるのも、こうした事情からだ。組織全体が一丸となり、調略を駆使することで渡り合っている。
しかしだからといって、楽団に流石に何の法則も取り決めも存在しないというわけではない。
無法の地ではあるが未開の地とは言い切れないのだ。
楽団領において最も強制力を持つ法、それは弱者は強者に従うということだ。
そして楽団で強者とは、突き詰めれば六大都市のいづれかを手中に収めた者のことである。
即ち総帥の統べるオルノーグ、ワリアンド、ナーガル、ツェレガ、ブラスエガ、グランバルドの六つである。
楽団領にはこれら六大都市を始めとする幾つかの主要都市が存在し、どんなやり方であれそこを制したものが権力を握る。
そしてその中でもオルノーグとワリアンドは別格とされる。
たった今名を挙げられたサダンはブラスエガの一画、教団領との境に程近い都市である。
六大都市よりは落ちるものの充分に大規模な要所であり、楽団領でも有数の堅牢さを誇る要塞だ。
ブラスエガとの地境からやや西進した地点に位置するこの都市は、教団にとって長年の厄介事だった。
何しろ位置が絶妙なのだ。
周囲は広い川に森林が生い茂り、無視して進軍すれば退路を絶たれることになりかねない。
時に木々に潜んで罠や奇襲を仕掛けられ、時に籠城されて時間稼ぎに付き合わされ、サダンがあるために逃げる敵の追撃を止めざるを得なかった事例もある。
歴代のヴェンリル家当主が攻め落とそうとしても、遂に一度も陥落しなかった難敵である。
そのサダンが教団の支配下に降ったなら、戦略的価値は計り知れない。
ブラスエガは楽団領北東部の物流の要であり、そこを叩ければ地境付近は一気に機能不全となる。
楽団の性質上、一度物流機能が崩壊すれば戻すことは容易ではなく、後釜を決めるまでの諍いを含めて軽く十年以上は要する。
そこまでせずともサダンを抑え橋頭堡を築ければ、ブラスエガにいつでも侵攻することが可能となり、相手側に圧力を与えることができるのだ。
地境付近に暮らす教徒たちの安寧にも繋がることだろう。
そしてそれは、五年続いた楽団との抗争の落とし所についての提言でもある。
要は有無を言わさぬ勝利をくれてやる、だから外野は黙っていろと言っているのだ。
周囲はざわめいている。
シノレとしては正直呆れも通り越して、いっそ感心した。
思うところはありつつも教団に同調してきた自分からすれば一周回って清々しい。
無理を通せば道理が引っ込む。
媚びず、諂わず、力と実績で以てあらゆる勝手を押し通す。
この振る舞いは完全に楽団流のそれである。
どうやらこの大舞台で、上辺だけでも殊勝に振る舞うつもりはないらしい。
中途半端な者がやれば袋叩きにされて終わりだろうが、リゼルドがやれば実際妙な迫力があった。
それでも多勢に無勢のはずなのだが、気を抜けば此方が呑まれそうな気配さえある。
そんなリゼルドの振る舞いに、一歩進み出る者がいた。
この場でも一際目立つ金髪が目を引く、カドラス家の当主だ。
これでもかというほど顔を顰め、何事か言い渡す。
だがそれは儀式でも使われていた古語な上、興奮気味に早口でまくし立てたため、意味が取れなかった。
「あは、分かんない〜。
今何か聞こえたけど、鳥でも紛れ込んでいるのかなあ?」
それにリゼルドは首を傾け、わざとらしく辺りを見回して見せる。
咄嗟に視線を巡らし、各家の反応、というか大まかな雰囲気を確かめる。
ワーレンは静観、ザーリア―はじっとワーレンを窺っている。
カドラス、セヴレイル、ベルンフォードが非難がましい顔をし、シュデースは興味を惹かれた様子だ。
ヴェンリルは明らかに熱を帯び、ファラードは静止したように無反応だった。
そんな空気の中、リゼルドは楽しげに微笑んでいる。
そしてあろうことか、こちらにも爆弾を投げつけてきた。
「シノレ、僕と一緒にサダンに行こうよ。
勇者がいれば験が良くって万々歳だ。
代わりに僕が、お前の後ろ盾になってあげるから」
隣から息を呑む音が聞こえた。
ずっと静寂を保ってきた聖者の姿勢が崩れる。
身を乗り出して立ち上がろうとしたその時、声が響いた。
「リゼルド」
冷厳かつ透徹と、まるでこの眩い神殿に響かせるためにあるような声である。
教主は、変わらず静かに微笑んでいた。
その一声で、一斉に場が静まった。
誰もが息を詰め、教主の次の言葉を待つ。
果たしてその口から流れたのは、淀みのない公用語だった。
「勇み足は感心しませんね。
叙階を終えて気が昂っているのならば、頭を冷やしなさい」
「嫌だなあ。叙階記念に大言壮語を吐くのなら、オルノーグを落とすとでも言うさ!」
それにリゼルドは笑顔で、敬語も使わず答える。
周りは色めき立つが、教主が聖杖を傾けた途端に静まった。




