貴婦人
「…………お疲れのようですね」
気づくと、窺うような表情に覗き込まれていた。
眼の前には聖者がいて、そこでやっと意識が明瞭になる。
気付いた途端、馬車の振動が体を揺らすのを感じた。
(まずいな。ぼんやりしてた)
それとなく体を伸ばし、座席に座り直す。
足元には必需品を詰めた荷が置いてあった。
シノレは今日から、聖者が住まう屋敷に居を移すことになっていた。
一月前のあの逃亡騒ぎを切っ掛けに、聖者はシノレの処遇に不安を覚えたらしく、傍で過ごすことを強硬に主張したらしい。
でなければ自分が引っ越すと言い切り、数日前まで大騒ぎだった。
浴びせられた難癖ややっかみなど、もう数え上げるのも面倒くさい。
おまけに聖者が直々に迎えに来たとあって、上下が引っ繰り返ったような状態だった。
勿論疲れは溜まっているが、顔に出したつもりはなかったので少し驚く。
故郷では疲れた顔をしている者など格好の標的だったので、取り繕うのには慣れているのだが。
その時不意に、馬車が止まった。咄嗟に顔を出して御者に呼びかける。
「どうかしましたか?」
「申し訳ございません、何やらあちらで、別の馬車が止まっているようで……」
進む道の、少し先に異変があった。
大きな、見るからに立派な拵えの馬車である。
向きからしてシノレとは反対方向、奥へ向かう途中らしいが、どうしてか道の真ん中で止まっている。
御者台は空で、付人らしき姿もない。
御者が戸惑ったように振り返った。
道幅はそれなりにあるので、すれ違うことはできる。
しかしこうした場合、相手との身分の上下によって対応が変わるのが常だった。
咄嗟に判断に迷い、馬車を止めてしまったらしい。
悩んでいると、大きな扉が、内側から勢いよく開かれた。
中から顔を見せたのは妙齢の婦人だった。
銀色の髪に瑠璃色の目をしたその女性は、シノレを見て、頼み込むように声をかけてくる。
「――ねえそこの貴方、お水をお持ちだったら分けて下さらないかしら?」
それは可憐な、上品な声であったが、どことなく切羽詰まったものが潜んでいた。
向かいから、小さく息を呑む気配がする。
聖者が腰を上げ、外に出ようとしたのでシノレも立ち上がった。
「ウルレア様、どうなさいましたか」
「……あら、セラちゃん!」
女性は目を見開き、その口から妙な響きが飛び出した。
シノレの手を借りて地面に降りた聖者は、それに深く礼をして応じる。
「お久しぶりです。その節は大変お世話になりました。
……何やら、お水がご入用と聞こえましたが」
「そう、大変なのよ!
この人が移動中、お腹を痛くしてしまって。
馬車の振動も気持ち悪くて辛いようだから一旦止めて、御者に遣いを頼んだのだけれど、中々戻ってこないし」
馬車から女性が降りてきて、その奥の人影が見えるようになる。
同乗していたのはふくよかな灰色の髪の男だった。
馬車の座席に横たわるようにして、苦しげに目を閉じて唸っている。
その膨らんだ腹からは、ぐおお、ぎゅるるると、何やら不穏な音が鳴り響いている。
「うぅ……苦労をかけて済まないな、お前」
「まあ、何を言うの。
御者が薬とお水を取りに行ってくれましたから、暫く休んで下さいな」
だが男は目を開けたまま、「いや、聞いてくれ」と駆け寄った女性の手を取る。
その目は受難に臨む求道者のような、澄んだ光を湛えていた。
「――もう暴飲暴食には懲りた。
今日から食べ過ぎは控え、今度こそ痩せてみせる。お前のためにも……」
「あなた、ああ……!!」
二人はひしと見つめ合って手を握り合う。
女性は感極まったように声を震わせる。
「その意気よ。
どんなあなたも愛しているけれど、不健康なのは良くないわ。
わたくしも献立や運動を考えますから、一緒に頑張りましょうね」
シノレはそれを見ながら立ち去ろうにも立ち去れず、ぽかんと立ち尽くす。
(何だこれ)
そう思いつつも口が挟めない。
会話の流れから察するに、二人は夫婦であるらしい。
いやその時点でまず引っ掛かる。
女性はどう見ても妙齢の域を出ておらず、男とは兄妹、何なら父娘と言ってもそれらしく見えそうだ。
シノレが両者を見比べぐるぐる考えている間に、聖者が声をかけた。
「水ならば、予備のものがありますので、一つお分けできましょう。
シノレ、お願いしても良いですか」
その声にはっとする。
馬車へ駆け戻り、御者に説明がてら水筒を荷から引っ張り出し、聖者の元へ戻った。
「どうぞ」
「ああ、ありがとう!!」
水を手渡す。
傍で見るとウルレアはますます小柄で若々しく、既婚の婦人には到底見えなかった。
艷やかな銀髪に白い顔には僅かな曇もなく、童女のような笑い方が尚更それを若く見せている。
水筒を受け取った夫人はまずそれを男に呑ませ、続いて中の水で手巾を濡らし、男の顔に滲む汗を拭き取る。
更に扉を大きく開けて空気を入れ替え、襟元を緩めて甲斐甲斐しく扇いでやった。
そうしている内に御者が戻ってきて、薬を服用した男も回復したようだった。
「セラちゃん、どうもありがとう」
「滅相もございません。何の御力にもなれませんで」
「そんなことはないわ。不安な時はいてくれるだけで嬉しいものよ。
ああ、あなたもね」
女性は去り際にわざわざ馬車から降りてきて、シノレの手を取り、何か小さなものを握り込ませた。
そして戸惑うシノレに、包み込むような愛情深い笑みを見せた。
「有難う。助けてくれて、良い子ね。
わたくしたちはワーレンの南東の邸に滞在するの。
御礼をしますから、いつでも訪ねて来て頂戴」
そうして馬車は、振動と物音を置き去りに山中へ去っていった。
何かが入った手を開くと、小さな干菓子が乗っていた。
それを見下ろし、何とも言えない気分になる。
(…………何だったんだろう)
恐らくは、明後日の儀式に参列するために奥に上がってきた使徒家だろうが。
食べ過ぎと乗り物酔いで往生とは何だ。
突っ込みが追いつかない。
教団にはあんな人間もいるのかと、半ば唖然と馬車を見送った。
完全に見えなくなってから聖者に向き直り、一番気になったことを問い質す。
「……名前、セラだったの?」
名乗りについて、あれだけ勿体ぶっていたのは何だったのか。
そう思っての問いかけは、「違います」と即答される。
どこか上の空の様子で、訥々と言葉が続いた。
「…………猊下の……先代様が時々お使いだった、渾名のようなものです」
それきり、物思いに耽るように黙り込んでしまう。
シノレも何となく疲労が伸し掛かり、暫しぼんやりと沈黙したのだった。




