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『虚月』②

 矢も楯もたまらず、椅子を蹴立てて立ち上がった。盛大な音が響いた。それに対する教育係の言葉も、酷い耳鳴りに覆われて聞こえない。

 どくどくどくどくと、心臓が波打って、それは一呼吸ごとに早くなっていく。


「シノレ!?おいどうしたのだ!お前、顔色が……」


「…………くる」

 ————何か、来る。


「シノレ!?」


 飛び出して、自室へ向かった。魔力が引きずられている。剣が呼んでいる。何故かは分からないが、そんな気がした。

 内臓が裏返るような、全身が総毛だつ感触。剣を、長櫃を初めて見た時の感触にどこか似た。それはどんどん大きくなる。


 扉に着く寸前。ぱん、と、何かが割れたような衝撃を感じた。平衡感覚を失いそうになる。扉と櫃を隔てていても、それがかたかたと震えているのが分かった。


 何故か、酷い眩暈を覚えた。言うことを聞かない手を動かして、扉を開け——そして、その向こうにある光景に絶句した。


 無造作にどかされた家具。散乱し、ひっくり返った調度。そして、その奥にはあるべきものがない。部屋の主の如く傲然とあるはずの長櫃が、存在しなかった。


 それなりの期間使っていた部屋が、知らぬ間に何者かに踏み荒らされた。戸口で呆然としていたシノレは、いきなり衝撃を感じて引き倒された。荒々しい足音がして、そのまま何人かに取り囲まれたようだった。誰かが何かを叫ぶ。知らない言語だった。


「……待ちなさい」


 その時、不似合いな少女の声が響いた。這い蹲るシノレに歩み寄って、顔を覗き込んでくる。

 それはオルシーラだった。金色の髪、白磁の肌、紫の瞳。壊れやすい芸術品のような、美しくも儚い面差し。

 シノレは暫く、声が出なかった。何が何だか分からない。けれど、取り返しのつかないことが起きたと感じた。


「……なんで、あんたが……」


 オルシーラは、静かな目で答えた。


「だって私は、このために来たのだもの」


 別人のような声だった。姫君然とした話し方からはかけ離れた、率直でそっけない、けれど確かな覚悟を感じさせる声だ。どこかで聞き覚えがある気がしたが、咄嗟には判断できない。


 その時、突然空が光った。室内にいても分かった。どこからか叫び声が聞こえる。とっさに窓を見る。


 西の方の空に見えたそれに、シノレは呆気にとられた。

 見たことのない何か。もう一つ太陽が出現したようだった。銀色の、炎のように輝く円盤。月を思わせる、天空に浮かぶ巨大な銀の珠。


 銀色の輝きは、刻々と光を増していく。明滅する。

 あれは、駄目だ。凄まじい頭痛に、頭が割れそうになる。歪む視界をこじ開けて視たその時、星のような光が西の大地へと落ちて行った。


 そのすぐ後、空が白く染まる。雷が星を追って、落とされる。一瞬目も耳も利かなくなり、息が止まる。


 遠く離れた場所にも衝撃が伝わるほどの、凄まじい雷霆が地上に——戦地となっていたルーニス平野に落ちた瞬間だった。


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