聖者の心配り
教主の弟エルクは絶え間なく続く社交に励む中、気力が削がれて行きます。
そこに聖者の手が差し伸べられます。
エルクは聖都シルバエルの最奥、ワーレン家の座所で生まれ育った人間だ。
その間、滅多に聖都から出たことはない。
だから今回の件は、ワーレン家の人間として他所へ出向するということがどういうことか、それを知る機会となった。
以前と同じ水上の宴会場で、エルクは人に取り巻かれる。
その日も彼は、やってくる人全てを笑顔で捌くという務めに従事していた。
「エルク様、何かご不便やご不満などはございませんか?
何かあれば、どのようなことでもご相談下さい」
「いいえ、何もありません。歓待して下さる皆様に感謝しています」
不満などあるはずがない。全て完璧だ。
会う人全てがそうだった。
姿勢、表情、声音、話す言葉……何もかもが如才なく、完璧に整い、洗練されている。
一欠片の悪印象も不快感も与えまいと、計算されつくした振る舞い。
それはエルクにとって、ごく普通のことだった。
人も物も、この目に映るものは全てが完璧に整えられ、調律されている。
幼い頃は、それが当然だと思っていた。
周りにいるのが「完璧な人間」ばかりだったから、その中で完璧ではない自分は、もしやとんでもなくできの悪い人間なのではないか――と、そんな疑惑や不安にまで苛まれたほどだった。
だが、長じるにつれて気づいていった。
彼らはワーレン家の威光を敬い、崇めているのだ。
人を引き寄せるのも、そして彼らを完璧にさせているのもワーレンの名であって自分ではないと。
自分自身はともかく、自分の血と立場には、狙われるだけの価値と理由がある。
それをエルクは心得るようになった。
「エルク様、先日は娘と踊って頂きありがとうございました。末代までの栄誉です」
「こちらこそ、ありがとうございました。
あの舞踏会は僕にとっても得難い経験となりました」
特にこういう公の場では、振る舞いは慎重を期する必要がある。
誰に何秒目を向けるかとか、それが周りにどう影響するかとか。
そんなことまで考慮して、気を配らなければ、どんな波紋が広がるか分からないのだ。
エルクはシアレットに来てからというものの、連日宴や集会に駆り出される日々を送っていた。
「エルク様は絵画がお好きなのですよね?
我が家も所蔵しておりますので、ご興味があれば是非お越し下さいませ。
いつでも歓迎致します」
「我が家にも支援している画家がおりまして、エルク様に彼の作をご覧頂ければこの上ない誉れでございます」
会ったこともない相手がこちらの動向を知っているのも、話した覚えのない趣味や愛読書に言及されるのも。普通のことだ。
ワーレン家の人間と僅かの時間でも話をするために、巨額を費やす者もいる。
彼らは将来を賭ける気概で、その短時間を過ごす。
更には付き人や侍従、侍女などによる情報戦や場外乱闘。
一々報告してきたりはしないが、彼らもそうした戦いに巻き込まれているのも知っていた。
だからこそ変な波風を立てたくないし、兄に迷惑もかけたくない。
そう心掛けてはいるのだが……
(ひ、人が途切れない……)
後から後から押し寄せる者たちへの応対は、もう暫く続いている。
流石に休憩を入れたくなってきた。
気力がすり減り、段々疲れてくる。
昔はこういう時、ベルダットやランベルを始め、周りの大人が助けてくれたものだ。
だが、エルクは既に成人を迎えたのだ。
あっさり音を上げて助けを求めるわけにもいかない。
無闇に他人を頼るのは、利用してくれと言っているようなものだ。
「エルク様」
その時、美しい声に呼びかけられた。
誰もが口をつぐみ、そちらを注視する。
聖者はエルクに微笑みかけ、穏やかに誘いかけた。
「シノレと、暫くお会いになっていないでしょう?
どうやら、お話したいことがあるようです。
恐れ入りますが、少々お付き合い下さいませんか?」
「……はい、聖者様。皆様、失礼致します。すぐに戻りますので……」
ここに来てから、もう何度か起きたことだった。
応答に困った時、聖者は度々こんな風に助け舟を出してくれていた。
エルクだけでなく、あまり知らない相手でもだ。
それを見る度、「優しい人だな」と感じる。
だからこそ、エルクは困惑する。
聖者の後ろ姿に続いて歩きながら、彼は思案した。
聖者に対して、どうすればいいのだろうと、あれからもずっと悩んでいる。
「……エルク様」
その声にはっとして目を向けると、聖者が足を止めて視線を向けていた。
ただ様子を窺う目ではなく、どこか真剣な眼差しだ。
何か話があるようだと察して、エルクも立ち止まって待った。
人集りから少し離れた、水音が涼やかに響く柱の傍だった。




