表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
391/478

聖者と教主の過去

エルクは兄である教主と聖者の関係について考えます。

現在とは大いに違う過去の様子に思いを馳せます。


「ガルシラス様。ええ、覚えています」


やがて流れで芸術の話になり、エルクは聖都出立前に目にしたガルシラスの絵のことを話した。

話題を振られた聖者は緩やかに頷いて、それに乗ってきた。

淡い金色のまつ毛を伏せると、目の青色が深みを増す。


「……素晴らしい芸術家でいらっしゃいました。

真摯で、謙虚で、何より美しいものを激しく愛していた。

だからこそ……私を描くべきではなかったのに」


(あ……)


まただ、と思う。聖者は、時折こういう、不思議な物言いをする。

懐旧と言うには沈んでおり、自虐的と言うには乾いた声だ。

どうしてそういう風に言うのか、エルクには良く分からない。


ただ、その聖者の様子を見て一つ思い出したことがあった。


聖者の美を画布に再現できないことに、ガルシラスが苦悩し、自信喪失し、筆を折ろうとしたというのは有名な話だ。

しかし一時、密かに他の噂も囁かれていた。


曰く、聖者を描いている間、ガルシラスは正気を失っていたのだと。

狂気に落ちた芸術家を数人がかりで画布から引き離し、それでも回復には時間を要したと。

それから数年、まともに絵筆を取らなかったのも、それ故のことだと。


本人に聞いてみなければ、分からないことではあるが。


聖者を見る。いつどのように見ても、完璧に美しく、瑕瑾のない姿だ。

心が洗われて、白く清められるような。

真善美とはかくありきと思わせるそれは、教徒の心を深く打つ。それは間違いなく、一つの美の究極形だった。


だが――確かに、長く長く見つめていれば狂ってしまうかもしれない。

まして、絵姿を写し取ろうという気持ちで、確たる意思を持って観察していたのなら――そう思わせる何かが聖者にはある気がする。


(僕は、そんなに聖者様のことを知らないけれど……でも、猊下は)


九……十年くらい前だろうか。座所の屋敷を出て、外で誰かと遊んでいた時だ。

一緒にいたのはたしか、ソリスだった。赤毛は大変珍しいから、その分記憶に残りやすい。


彼らよりも少し年上の、少年と少女の二人が通りがかった。

一人は兄で、その後ろからもう一人がついてきていた。


エルクにとって、その頃には既に、兄レイノスは絶対的存在だった。

緊張しながら挨拶を終えると、兄はもう一人の方を見る。

そっと促すように、何かを言ったようだった。


震えるような沈黙は数秒だった。白いドレスの裾が揺れ、不安げな眼差しが覗く。

心細そうに兄の背中に隠れていた、淡い金の髪の少女――


「エルク様?」

「……あ」


我に返ったエルクの視線の先で、聖者は変わらず静かに佇んでいた。


正直、エルクは聖者のことを然程知っているわけではない。

十年近くもの時間を同じ座所で過ごしたが、その間大して面識を持つこともなかった。

それでも彼は、かつてのことを、朧気な記憶を辿って思い出す。数少ない、昔の聖者の記憶を辿る。


昔、聖者と会った数少ない記憶の中で、決まってその傍にいたのが兄レイノスだった。

あの頃、二人はとても近しかった。

先代の教主の意向で、年が近かったこともあり、兄はよく聖者の世話をしていたのだ。

本当に始めの頃、教団に馴染めない聖者に根気強く付き合って、ここの言葉や流儀を教えていた。

それは座所の常識だったし、エルクも当然耳にしていた。


二人でいるところに遭遇することも、遠目に見かけることも時折あった。

知る限り兄は聖者を気にかけ、導いていた。

聖者もそんな兄に気を許し、頼っているように見えた。

……悪い関係には、見えなかったのだ。けれど。


「――――…………」


季節は夏にも関わらず、冷たいものを感じて、夏だというのに体が小さく震えた。


今でも信じられないのだ。

記憶にある限り常に、寛大で柔和で穏やかで、何より完璧であったあの兄が、『そんなこと』をしようとしたというのが。

けれど実際に、それきり兄と聖者が二人でいるところを見ることはなくなった。

エルクは実際にその場に居合わせたわけではなく、確かなことは何も知らないが……間違いなく、決裂はあったのだろう。


兄はきっと聖者を嫌っているのだと、思う。

分かっている事柄からは、そうとしか考えられない。

細かい機微などは他所から伺い知れることではないが、もしかしたら親しげにしていた頃から、不和の芽は育っていたのかも知れない。

そして……そして、その時、あの兄が自制を忘れるほどに許しがたい何かが起きたのだろう。


(……僕は、一体どうするべきなんだろう)


腹違いとは言え、その弟である自分は、聖者の前でどう振る舞うべきなのだろうか。その答えは中々出なかった。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ