聖者と教主の過去
エルクは兄である教主と聖者の関係について考えます。
現在とは大いに違う過去の様子に思いを馳せます。
「ガルシラス様。ええ、覚えています」
やがて流れで芸術の話になり、エルクは聖都出立前に目にしたガルシラスの絵のことを話した。
話題を振られた聖者は緩やかに頷いて、それに乗ってきた。
淡い金色のまつ毛を伏せると、目の青色が深みを増す。
「……素晴らしい芸術家でいらっしゃいました。
真摯で、謙虚で、何より美しいものを激しく愛していた。
だからこそ……私を描くべきではなかったのに」
(あ……)
まただ、と思う。聖者は、時折こういう、不思議な物言いをする。
懐旧と言うには沈んでおり、自虐的と言うには乾いた声だ。
どうしてそういう風に言うのか、エルクには良く分からない。
ただ、その聖者の様子を見て一つ思い出したことがあった。
聖者の美を画布に再現できないことに、ガルシラスが苦悩し、自信喪失し、筆を折ろうとしたというのは有名な話だ。
しかし一時、密かに他の噂も囁かれていた。
曰く、聖者を描いている間、ガルシラスは正気を失っていたのだと。
狂気に落ちた芸術家を数人がかりで画布から引き離し、それでも回復には時間を要したと。
それから数年、まともに絵筆を取らなかったのも、それ故のことだと。
本人に聞いてみなければ、分からないことではあるが。
聖者を見る。いつどのように見ても、完璧に美しく、瑕瑾のない姿だ。
心が洗われて、白く清められるような。
真善美とはかくありきと思わせるそれは、教徒の心を深く打つ。それは間違いなく、一つの美の究極形だった。
だが――確かに、長く長く見つめていれば狂ってしまうかもしれない。
まして、絵姿を写し取ろうという気持ちで、確たる意思を持って観察していたのなら――そう思わせる何かが聖者にはある気がする。
(僕は、そんなに聖者様のことを知らないけれど……でも、猊下は)
九……十年くらい前だろうか。座所の屋敷を出て、外で誰かと遊んでいた時だ。
一緒にいたのはたしか、ソリスだった。赤毛は大変珍しいから、その分記憶に残りやすい。
彼らよりも少し年上の、少年と少女の二人が通りがかった。
一人は兄で、その後ろからもう一人がついてきていた。
エルクにとって、その頃には既に、兄レイノスは絶対的存在だった。
緊張しながら挨拶を終えると、兄はもう一人の方を見る。
そっと促すように、何かを言ったようだった。
震えるような沈黙は数秒だった。白いドレスの裾が揺れ、不安げな眼差しが覗く。
心細そうに兄の背中に隠れていた、淡い金の髪の少女――
「エルク様?」
「……あ」
我に返ったエルクの視線の先で、聖者は変わらず静かに佇んでいた。
正直、エルクは聖者のことを然程知っているわけではない。
十年近くもの時間を同じ座所で過ごしたが、その間大して面識を持つこともなかった。
それでも彼は、かつてのことを、朧気な記憶を辿って思い出す。数少ない、昔の聖者の記憶を辿る。
昔、聖者と会った数少ない記憶の中で、決まってその傍にいたのが兄レイノスだった。
あの頃、二人はとても近しかった。
先代の教主の意向で、年が近かったこともあり、兄はよく聖者の世話をしていたのだ。
本当に始めの頃、教団に馴染めない聖者に根気強く付き合って、ここの言葉や流儀を教えていた。
それは座所の常識だったし、エルクも当然耳にしていた。
二人でいるところに遭遇することも、遠目に見かけることも時折あった。
知る限り兄は聖者を気にかけ、導いていた。
聖者もそんな兄に気を許し、頼っているように見えた。
……悪い関係には、見えなかったのだ。けれど。
「――――…………」
季節は夏にも関わらず、冷たいものを感じて、夏だというのに体が小さく震えた。
今でも信じられないのだ。
記憶にある限り常に、寛大で柔和で穏やかで、何より完璧であったあの兄が、『そんなこと』をしようとしたというのが。
けれど実際に、それきり兄と聖者が二人でいるところを見ることはなくなった。
エルクは実際にその場に居合わせたわけではなく、確かなことは何も知らないが……間違いなく、決裂はあったのだろう。
兄はきっと聖者を嫌っているのだと、思う。
分かっている事柄からは、そうとしか考えられない。
細かい機微などは他所から伺い知れることではないが、もしかしたら親しげにしていた頃から、不和の芽は育っていたのかも知れない。
そして……そして、その時、あの兄が自制を忘れるほどに許しがたい何かが起きたのだろう。
(……僕は、一体どうするべきなんだろう)
腹違いとは言え、その弟である自分は、聖者の前でどう振る舞うべきなのだろうか。その答えは中々出なかった。




