聖者の思い出
オルシーラ姫、聖者、エルクによる小さな昼食会。
そこで、教団ならではの、一見素朴に見える食事が供されます。
それは、聖者の思い出に繋がるもののようです。
「…………こちらです。何かあれば、お気軽にお申し付け下さいね」
「ありがとうございます、シオン様」
美しい装飾がされた扉が、緩やかに開いていく。
そこは城館の、小規模な昼食会の場であった。
日中の移動の際、護衛や道案内は殆ど常につけられる。
麓の城はまだしも、こちらの城館にはまだ不案内なので、オルシーラとしてもありがたいことであった。
「オルシーラ姫、御機嫌よう」
「御機嫌よう、聖者様。エルク様も、お会いできて嬉しいですわ」
そこには聖者や、先月出会ったエルクもいた。
最近で顔見知りになった彼らに「お呼びにあずかり、ありがとうございます」と会釈し、歓談に入る。
そして、それは程なくしてやってきた。
「……まあ、こちらが……」
オルシーラは、胸中に蟠る戸惑いを顔に出さず、その皿を見つめた。
知識としては知っていたが、実際に直面すると驚きを禁じ得ない。
小さな丸いパンが、白い大皿に並べられている――言ってしまえばそれだけだ。
中央に埋め込まれた杏の大部分が、白いパン生地に包み込まれている。
丸型のパンとして焼成してから、中をくり抜いて果物を入れたのだろう。
優しい白色の生地、その小さく穴の空いた上部から、明るい橙黄色が覗いている。
艶出しの飴がかけられたそれは、小さくきらきらと、美しく光っていた。
とても素朴で愛らしい外見だが、技術と贅の極みのような料理の中では浮いていると言わざるを得なかった。
しかし、それはこの場でも極めて格が高く、荘重な儀式的意味合いを持つ料理なのだ。
オルシーラはしみじみとした気分で、隣りにいる聖者に問いかけた。
「お話は聞いておりました。これが、聖者様が最初にお口にされた食べ物なのですね……」
「……そうですね。少々お恥ずかしいのですが」
天から降りたばかりの聖者は、暫くの間地上の食べ物を受け付けなかったのだという。
そんな聖者が初めて食べたものが、これだったのだそうだ。
拘り抜いた華麗な料理ではなく、その時の料理人が機転で拵えた、小さく素朴な果実のパンだった。
そして、その話は瞬く間に広まった。
先代教主クローヴィスも、教徒への慈悲として小さな干菓子を広く配布するなどし、積極的に広めた。
それを端緒に教団では一口で食べる料理や菓子の文化が、急激なほどの速度で花開いた。
大流行と言っても良いその隆盛は、聖者の特別性に起因することであったろう。
少しでも聖者様に近づきたい、あやかりたい、そう願う教徒たちによって信じられ、広められたのだ。
「一口大の、手で食べられる料理を食べる」という、大枠はただそれだけの単純なものだ。
だからこそ時と場合に応じて、様々に工夫を凝らされる。
「……オルシーラ姫には、馴染のない食べ方かも知れませんが。
これもまた、教団式の歓迎と友好の証でございます。お嫌でなければどうぞお召し上がり下さい」
「いいえ、嬉しゅうございます。喜んで頂きますわ」
少し心配気なエルクの言葉に、オルシーラがそう答えたのは、決してお愛想だけではなかった。
確かに、手づかみでものを食べるなど、セネロスではあり得ないことだし、教団でも一般的ではないだろう。
手で食べる食文化は、探せばどこかしらにあるだろうが、これは一風変わった教団独自の文化だった。
一口料理を手で取り、人と一緒に食べる。
それは天の祝福をともにする行為、末永い友好と調和を意味するとされ、祝い事や行事の折に饗されるのだそうだ。
おっかなびっくりしてしまうが、崩れることも汚れることもなく口に運べた。
指で摘んだそれは安定感があって、事故が起きないよう工夫されているようだった。
エルクや聖者も、オルシーラの動きに合わせて口に運び、咀嚼する。
「…………美味しいです」
小麦の風味と舌触り、そして溢れ出す果汁と香り。
仄かに蜂蜜の香りもする。濃密な甘味と酸味が調和して、小麦の味わいと溶け合った。
素朴で単純なだけに、一切の妥協なく選び抜いた素材と熟練の技術が光る。
豪奢で技巧を凝らした料理とは違うが、これはこれで職人技と言うべき一品だった。
「それは良かったです。この先こうした品が出されることもあると思いますので……予行も兼ねてでしたが、御気に召したのであれば何よりです」
エルクが答え、聖者も安堵したように微笑む。
どちらからともなく視線を交わし、小さく笑いあった。
だが、ふとエルクの顔が曇る。
短い沈黙の後、エルクは少し迷いの滲む、窺うような目で、聖者に水を向けた。
「……こちらは猊下が、聖者様のことを気遣い、料理人に用意させたものだったと聞いています」
「…………はい。勿体ないほどのお気遣いでした」
聖者は静かに笑って応える。エルクはそれに、何事か言いたげな顔をしたが、結局は口を噤んだ。
その変化に気がかりなものを感じたが、オルシーラも結局飲み込む。
新参者が口を挟むことではない気がしたし、自分がいるからエルクは突っ込んだことを聞けなかったのではと感じたからだ。
食事会に集った者たちが、その一部始終を見守っていた。
自分への視線や風当たりも、徐々に緩まってきていると感じる。
今の儀式とてそうだ。始めからそれほど強く監視されていたわけではないが、自由に動ける時間も徐々に増えていっている。
だから探し物も、そろそろ本腰を入れて始めないといけない。
胸元で輝く青い宝石を、視線を向けずに意識した。
(でも、聖者様のことだけは気にかかる。
もしかして、全て悟られているのかもしれないと、そう思わされてしまう……)
ただ、どうしてだろう。その時は――いつも通り人々の視線や言葉を受け入れる聖者の笑顔が、オルシーラには妙に儚く透き通って見えたのだった。
聖者様はこんな風に幸せな思い出を掘り返される度、ひとりダメージを受けています




