総帥の密命
執務室で書き物を続ける彼の前に陣取るのはバルタザールである。
応対用の椅子に座ることすらせず、彼が向き合う机に腰を下ろしている。
その影で手元が微妙に見づらい。
しかも合間に足を揺らして机を蹴るので、作業場所まで連動して手元が狂う。
突如ブラスエガまで舞い戻ってきた兄の一連の振る舞いを受けて、バルジールの忍耐は着実に削られていた。
約束もなしに乗り込んできて執務の邪魔をして、挙げ句聞いてもいない初恋話を開陳しだす始末。
しかも中身がえげつない。
どういうつもりだ、新手の嫌がらせか。
「…………教団関連の進捗はどうなっていますか、兄さん。
こうしていらしたからには、何か報告すべき事柄があるのでは?」
だが、押し殺す。
彼が選んだのは、全てを無かったことにして事務的に話を進めることだった。
現状の問題は、先月に下された総帥の密命だ。
それは何よりも優先される。
総帥とは、楽団で最も強い者であるからだ。
だから彼らは継承戦を一旦棚上げして――無論隙が見えたら突くことに疑問はないが――教団の包囲網を作ることに専念していた。
「んー、まあぼちぼちだな。
これも上手く行けば、巡り巡って貴下への助けとなろう。
それを思えば、俺も力が入る」
あからさまに話を変えられたというのに、バルタザールは気にした様子もなく普通に答える。
彼が最近せっせと勤しんでいるのは、教団使徒家の一角、ファラードとの情報戦であった。
不審な者を徹底して警戒する教団とは違い、楽団では密偵間諜内通者など当たり前。
だからこそ使える手管もある。
「まあ今のところは順調ということで、後はムーさんに期待だな。
ベウガンは、あの男が落とした領土だろう?
それが水泡に帰すなら、胸がすく思いがするだろうなあ」
一体先代のヴェンリルに何の恨みがあるのかと思うが……バルジールは追及しないことにした。
この兄のことだから、どうせ下らないことだろう。
そんな弟の気持ちも知らずにバルタザールは指先で机を叩く。
「ふっふふ、楽しいなあ。
このために色々撒き餌も用意したし……さてさてどれに引っかかるやら。
ソリスだったか?
噂に聞く少年当主の手腕と見識次第だなあ、これは」
「……暢気ですね。そんなことを言いながら、核心にたどり着かれた日にはどうするおつもりですか?」
「ふははそれは由々しきことだな、怖い怖い……
……なあ、俺がそんな真似を許すと思うのか?」
声の調子が僅かに下がった。
緩んでいた瞳がやや開かれ、死体のような虚ろな顔を見せる。
赤い双眸が一際目立つ、青白い作り物のような美貌。
そこから完全に表情が抜け落ちると、得も言われぬ凄みがあった。
すぐにその雰囲気は和らぎ、笑顔ではないが寛いだ表情を向ける。
「冗談、冗談だ。
そうだな、誰にでも失敗はある。
その場合はしかるべく対処をしよう。
いろいろな意味でな。
……そんなこんなで、情報戦の方は一区切りしたわけだが。
弟、貴下の方はどうなのだ?」




