馬車の中
馬車が来てからも座席の譲り合いで一頻り揉め、改めて人々に挨拶を告げ、彼らを乗せた馬車が動き出したのは半刻ほど経った頃だった。
周囲は護衛の騎士や馬車で囲まれ、その進行はゆったりしたものだ。
「全く、あれは今どうしているやら……」
エルクは先程互いに譲り合った上座、進行方向と同じ方を向く席に座っていた。
その対面にはジレスが座っている。
いつもの顰め面でそうしきりに呟く姿を見て、何となく思ったことを口にした。
「……ジレス様は、シノレのこと、案じておられるのですね」
「ええ案じていますとも。何か突拍子もないことを仕出かして、聖者様や使徒家の方々に迷惑なぞかけてはいまいかと!」
思わぬ返しに、エルクは鳶色の目を瞬く。
ここまでの交流を思い返すが、どうもジレスの言葉と結びつかない。
確かに不満はありそうだったが、良くも悪くも諸事を無難にこなしている印象だったのだが。
「……シノレはそんなこと、しないでしょう。
僕には、彼は周りに合わせることに長けている人に見えましたが」
「いいえ、エルク様はあれのことを……特に、聖都に来たばかりの頃のあれをご存じないのです。
当然のこともまともにできない…………人間というのも烏滸がましい、山猿同然だったのですから。
どうにか人間と呼べる域に仕立て上げるのにどれだけ苦労したか……」
「シノレが、ですか?……あんなにしっかりしているのに……」
「あれはしっかりしているのではなく、擦れていると言うのです。
教団の常識がないのは仕方ないとしても、妙なところで抜けているし、放っておけば勝手に悩んで爆発する……楽団育ちだからといって、ああも話が通じないとは思いませんでした」
きっと不満と心労が溜まっているのだろう。
ぶつぶつとぼやく顔を見つめ、エルクは物思いに耽る。
頭に浮かぶのは、ここ最近会うこともなかったシノレの顔だ。
(元気にしているでしょうか……)
……というか。
今更だが、シノレに対してどう呼びかけたものかと悩んでいる。
楽団の奴隷だったという出自と、そして忌憚なく話した時の空気が続いて、何となく呼び捨てが定着してしまっている。
しかし改めて証明された聖者の特別さを思えば、シノレにも相応の敬いを向けるべきなのではないか……当人が聞いたら鳥肌を立てて嫌がりそうなことを、しかしエルクは大真面目に考えていた。




