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シノレの過去

 現在、シオンは向こう側で馬の世話をしている。

ブライアンは話は聞いているようだが、疲れてしまったようで口を挟んでは来ない。

そんな中でシノレに話しかけてくるのは、専らユミルであった。


「シノレはどんな風に育ったんですか?僕は楽団のことはあまり知らなくて、想像がつかないんです」


「……聞いて楽しい話など何もありませんよ」


「そうですか?言いたくなかったのならすみません、気を悪くしないで下さい!」


 妙なところで鋭いなと苦笑する。

まあ確かに、過剰反応するほどではないが、進んで話したいことでもないのだ。


「でもシノレ、君の名前ってどういう由来なんです?そこだけ気になって。嫌でなければ教えて下さい!」


「それは……僕も由来とかは知りません。ただ昔、字とかを教わった師にそう呼ばれていたので」


 ふらりと現れた傷だらけの面相の師に、いきなり弟子認定された時のことを思い出す。

もう何年も前のことだ。あれから随分色々なことがあって――……そして教団に来て、あれよあれよと勇者とやらになることになり、顰め面の教育係に「名前は」と聞かれて、咄嗟に出たものがそれだった。


 話を聞いたユミルは、大きく一つ頷いた。


「なるほど……お師匠様との大切な思い出の証なんですね!素晴らしいことです!」

「…………はあ、まあ……?」


 「鼠」とか「おい」とか「屑」とか「カス」とかの中で一番マシだったからとは、些かならず言い難い空気だった。

曖昧に返して、自分の手を見る。それは青白く透けるような白さで、汚れらしき汚れもない。


(……鼠。そう、ずっとそうだった。真っ黒な)


 今となっては懐かしさすら感じる記憶だが。教団に引き取られた当初は、身嗜みを整えることに非常に抵抗があった。

シノレは物心ついてからというものの、いつでも汚かったし、汚くしていたからだ。

楽団の最底辺に近い貧民街育ちの小僧には、身ぎれいにする習慣そのものがなかった。

清潔に整えられている方が却って不自然だし気持ち悪く思えて、意図的に汚しては教育係に怒鳴られたものだ。


 それは何も習慣というだけではなかった。汚くしているようにと、そう彼に言い聞かせた男がいた。

名付けをした師と出会うよりも前のことだ。彼の暮らす小屋の中で寝かせてもらい、用を言いつけられ、彼の人脈に頼って、日夜世話をして。

あの灰色の貧民街の片隅で、そんな日常を繰り返していた。


 当時は当たり前過ぎて、取り立てて意識していなかったが。やはりあれは、育ててくれたと言うのだろう。

雨の後などで汚れが落ちている時などは、彼は顰め面で安物の靴墨を出してきて、そのまま頭から塗りたくられた。

無骨な手からは錆の匂いがした。


 彼は自分に名前をつけてくることはなかった。ただ鼠と呼ばれていた。

だから、あの街で長らく彼は鼠だった。常に全身真っ黒で。汚くて小さくて、矮小で愚かな鼠だった。

……そうして人間扱いされなかったから、避けられた災難も多かったのだと思う。

今にして思えば、彼はそんな風に自分を案じてくれていたのかもしれない。

けれど当時の自分は、それに疑問を持つことさえしなかった。

もしかしたら彼が名をつけなかったのは、下手に情を移したくなかったのだろうか、とか。

……今なら少し、彼のことが分かる気がするのだ。


(……分かるも何も、相手はもうとっくに死んでるっていうのに。今になって、話したいことができるなんてなあ……)


 世の中とは皮肉なものだと密かに笑う。思い出した記憶も大分褪せていた。

今では全て、遥か昔のことに思える。かといって、今の自分に馴染んだという感じもない。

宙ぶらりんのような、奇妙な気分だった。少しぼんやりしていたのが、ユミルの声で我に返る。


「それで、エルク様のご到着の日取りが決まったそうですよ!!何でもジレス殿も同行していらっしゃるとか!楽しみですね!」

「そうなんですか……」


 ぼんやりと返しながら、あの教育係がなあと思う。

一体何しに来るのだろう。やはり教育の続きと、場合によっては再教育だろうか。

前とは色々状況が変わったことだし……まだまだ喋り続けるユミルの声を聞き流しつつ、シノレはそんなことを考えた。


(にしても、暑い……)


 じりじりと熱気が照りつけ、吹き出た汗がこめかみを伝っていく。

手足に力がうまく入らず、立ち上がりたくない。

シノレは顔を上げ、強烈な熱と輝きを放つ太陽をうんざりと見上げた。


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