不可逆の事柄
使徒家の恥晒し――いや、それどころか害にすらなりかねないと、疎んじられていることは知っている。
ディアは剣呑な視線を向けられても気にしなかった。嫌われたとてどうでもいいことだ。
ザーリア―には、個人的に思うところもある。
ディアにとっては、これは意趣返しとも言えた。
周囲に人気がないことを再確認し、一気に相手に魔力を流し込んだ。
「…………!!」
相手には何が起こっているか分からないだろう。
それでも多少の抵抗はあるが、彼女にとって問題になるほどのものでもない。
ささやかな反抗を一つずつ潰し、摘み取っていく。
粗方終わった後には、虚ろな目をした男がその場に残った。
「……それで良いんだよ」
近づいてそう囁き、幾つかの命令と術を組み込んでいく。
一時的に精神を守る術を失くした彼に、それは砂が水を吸うように染み渡っていった。
術式を編んで、意識を通り抜けさせ、無意識の奥底に沈める。
この一時のことも、術を解けば忘れる。そのように仕組む。
「…………ザーリア―の封印か……」
ディアが狂った理由は聖者ばかりではない。あんなものはただの引き金で、種はそれよりずっと前に埋められていた。
使徒の中に、ザーリア―が迎えられなければ。そうであれば、自分が狂うことはなかったかもしれない。
そうなれば、そもそも己が生まれることさえなかったかもしれないが、寧ろその方が良かったと思える。
理不尽な心情だと思いながらも、膿のような感情が深い場所で蟠る。
けれどそれすら倦怠感に呑まれて消えてしまった。
ディアは一つの気持ちを保持することができない。
全てが薄暗く、乾き切り、色褪せたものに感じる。永遠に失われたものへの喪失感と虚無感、それだけが変わらず彼女の胸を占める。
「……狂う?今更。当たり前だから。狂っていない時のことなんて、思い出せない」
それだけ呟いて踵を返そうとして、「ああそうだ」と思い出した。
振り返ると未だ朦朧とした顔の男がいて、その顔に向かってついでに告げた。
「そっちの派閥に浮気して、逃げた女がいるってね。
それはもう見つからないよ。捜索は打ち切った方が良い」
そう言いおいて、ディアは今度こそ外に出る。
後はただ、来た道を戻るだけだ。足早に進みながらも、名状しがたい感情が胸に渦巻いていた。
確かに自分は、とっくに壊れているのかも知れない。
遠い昔、聖者を初めて見た瞬間から。
もしも元の自分に戻れる道があるのであれば、そこに情熱を傾けることもできたかもしれない。
しかし、恐らく戻れないだろうと直感してしまっている。
魔力にまつわることは、その殆どが不可逆の事柄なのだ。
聖者への恨みも怒りも褪せてしまった。倦んだ老人の心地とはこのようなものだろうかと、時折思う。
「…………ふー……」
慣れ親しんだ自室に戻ってくると、強烈な疲労が伸し掛かってきた。
やはり外出は疲れる。魔力も使ったから尚更だ。
鸚鵡も主人の疲労を察してか、騒ぐことはしなかった。
このまま眠ってしまいたいが、その前にしておくことがある。
ディアは上着を脱ぐこともせず、一直線に部屋の奥へ向かい、戸棚の隠しに仕舞っておいた小袋を取り出した。
口を閉じる結び目は異様に複雑なものだったが、ディアが指でつつき、魔力を流すと独りでに解けた。
それ以外の手段では開けられないようになっている――例の、ザーリア―が施した封印のように、より強い魔力で打ち破られれば話は別だが。
袋の中に収められているのは、数多の魔晶石だ。
その中には小ぶりで数も少ないが、魔晶銀や魔晶蒼も含まれている。
続いて水盆を用意したディアは袋を傾け、それらを惜しげもなく水の中にぶちまけた。
多くが水に沈むが、少し待つと幾つかが浮かび上がってくる。
そこに魔力を流すと、浮き上がった石は光り、何かに呼応するように震えだした。
彼女にしては極めて珍しく、仄かな笑みが顔に浮かぶ。
ディアは水盤の上に身を乗り出し、その光景に見入った。




