密偵
夜更けの酒場は薄暗い。
その店の一席に男の前には、一杯の酒が置かれていた。
もう夜も深い。この一杯を飲み干す頃には月が変わっているだろうと、そう肌で感じた。
その夜男はベウガン地方の某所で、最後の情報収集に動き出していた。
「ここ暫くは気候も落ち着いていましたが……来月からは一気に暑くなりそうですね」
「ええ。そろそろここでも夏の酒や、精のつく料理など出していくつもりです。
良ければまたお越し下さい」
「それは楽しみですが……残念なことに、夜が明けたら街を発つつもりでして」
「それは残念です。…………ああ、時に」
グラスを拭いていた主人は一度手を止める。
顔を上げた彼は、男に静かな目を向けていた。
それに悪寒が走るが、何食わぬ顔で相手を見つめ返す。
「……そう言えば数代前の猊下に、殊更に夏を愛した方がおられたような。
いつの御方でしたでしょうか……」
「十五代目ヘレディク様……今代の祖父君にあたる御方でしょう?
夏になると決まってかのシアレットに滞在し、夏の城館から臨む滝流れる眺望をこよなく愛したとか……」
「ああ、そうでした。いきませんな、この頃物忘れが激しくて……」
ご謙遜を、と口には出さずに思う。
恐らく何かで不審を持たれ試されたのだろうが、この問題は易しい部類と言えた。
それだけに間違えれば即座に通報、ひいては拘束されていたことだろう。
教徒たるもの歴代教主の名前や生没年、有名な逸話や格言くらい頭に入っていて当然だからだ。
彼が淀みなく答えたことに、酒場の主人の視線は僅かに和らいだ。
すぐさま通報されることはないだろうが、あまり悠長にもしていられないだろう。
(そろそろこの街で動くのも潮時か……まあ予定通りだから、別にいいが。早めに発つとしよう)
一先ず、男はこの街で最後の酒を味わう。
そうしている内にまた人がやって来て、酒場が徐々に賑わってきた。
こうなれば多少不信を持たれても、場の空気に埋もれてしまえる。
魔の月の不幸で地方一帯が孤立して早三ヶ月。
この辺りでも徐々に風向きが変化し、不穏の芽が顔を出してきている。
こんな深夜に酒場が賑わうのもその一端を示している。
酒が入っても楽しげに浮かれることはなく、どこか張り詰めた顔で探りあうように見つめ合った。
どうなるのだろうと、誰かが零す。
「このまま中央を信じていて良いものか……我々とて、教団領では新参に過ぎないのだ」
「スーバでは……ただエレラフの殲滅に疑問を口にしただけの子どもが、一刀に斬り殺されたと言うぞ」
「なんてことを……!口を慎め!!使徒家の方々のご判断だぞ!」
「……だが……」
一人が気色ばんで言い返す。しかしそれきり、場は重い沈黙に包まれてしまった。
エレラフの征討。ここから見て南東に程遠くないそこで起こった惨劇は、当然彼らの耳にも入っていた。
壊され、殺され、奴隷に落ちた末路は強い畏怖を刷り込み、そして恐怖を掻き立てる。
務めを果たしていれば、そして平時であれば教団は彼らを助け、庇護してくれる。
しかしどのような経緯であれ――一度背いたなら最後、一片の容赦もなく討ち滅ぼされる。
それを彼らは知っており、だからこそ不安定な情勢に不安を覚えずにいられないのだ。
平時であれば間違ってもこんなことは口に出さない。
けれど地方全体が孤立し、侵略の危機に晒されているという状況が、押し込めていた諸々の不安を煽っていた。
一応土砂の撤去は進んでいるし、人の行き来が不可能というわけではない。
しかし未だ、大軍が通行できるほどのものではない。
いざという時に援軍が来るのか否か。それが最大の懸念事項であった。
黙って酒を口に運んでいた男は、そこまで聞いて盃を置く。
更に硬貨数枚を置き、その場を後にした。




