月の終わり
もう月も残すところ一日だ。
時の流れは早いもので、この夜が終わり、再び日と月が一周すれば新たな月が始まる。
全てが刻々と進んでいく。
過ぎ去った流れを巻き戻すことは誰にも出来ないと、それはずっと前から分かっていた。
『セラ。傍へ』
「…………っ」
その日聖者が覚醒すると、辺りは真っ暗だった。
それだけで、まだまだ夜明けには遠いと分かる。
その光景はいつも通りのことであった。
少しぼうっとした後、聖者は上体を起こし、素足を床につけて音を立てないように移動する。
顔を洗い、髪を櫛ってから首の後ろで結わえた。
……次は着替えだ。
簡単に、そしてできるだけ静かに身嗜みを整えていく。
そうしながら頭に巡るのは、先程までの夢の余韻だった。
『…………心のままに振る舞うが良い。
憂うことも、畏れることもない。
他の誰にとってもそうであるように、世界はそなたのためにあるのだから』
「…………猊下……」
最後に鏡の前で確認をした。そこに映った顔は、我ながら辟易するほど青白かった。
元々眠ることは得意ではないのだ。
僅かな物音や空気の乱れで、すぐに意識が呼び起こされてしまう。
年が経つごとに不眠は悪化するばかりだった。
目の辺りに手を当てて揉みほぐし、血色を良くしようと試みるが、それも気休め程度のものだった。
誰もが美しい、神々しい、眩いとそう讃えるこの容姿を、しかし聖者自身は一度たりとも美しいなどと思えたことはなかった。
彼女は、真に美しいものを知っているからだ。
その輝きを思えば、こんな姿はひたすらに惨めで滑稽なだけで……酷く浅ましく、醜悪とすら感じていた。
それは今この時も変わらない。鏡の中の弱りきった顔が力なく笑う。
それ以上見たくなくて顔を反らし、象徴たる天秤を手に取った。
そして聖者は祈りの姿勢を取った。
力を使う時、聖者はいつでもこうする。
動かずに静止していても不自然ではないし、邪魔されずに済むからだ。
いつしかそれは習慣になってしまった。
呼吸を整え、奥深くから魔力を汲み上げる。
それを波紋のように、静かに緩やかに周辺に広げていく。
ただ一つ、シノレがいる方角には向けなかった。
今の彼なら気づいてしまうだろうし、叩き起こすのは忍びない。
何より……あの剣に迂闊に触れればどんな反動が返ってくるか分からなかった。
広げた紋は人に触れ、物に触れ、それぞれの反響が返ってくる。
その気になれば小石一つ、髪一筋まで具に調査できるだろう。
しかしそれが目的ではない。
あくまで異常がないかの確認に過ぎない。
何もなければ、打ち返し、歪め、弾き出してくるものがなければそれで良いのだ。
もしも、異変があるのなら――何等かの方法で対処しないといけない。
「――――……」
そうしながら、思い出すのはシノレとの会話だった。




