先代教主
レイグはその夜、久しぶりに妻ヘレナと連れ立ち、城内を軽く見回っていた。
静かな城に、ひたひたと、途切れがちの足音だけが連なる。
「……問題はなさそうだな。
来月末の宴の件も、その後の引っ越しの準備も、恙無く進んでいると聞く」
「ええ。私個人としても、エルク様には是非歓迎の意をお伝えしたいですわ。
彼の御母上には、以前少しお世話になりましたの」
「そうだったのか、道理で。
……城館の最終点検も終わったようだし、後は徐々に人と物を入れていかねばな」
お任せ下さい、そうヘレナは淑やかに答える。
毎年のことであり、彼女としてももう慣れているであろう。
夏季の引っ越し、それがシアレットにおける避暑である。
夏の暑さが強まる七月中に、この城より北にある山間の城館に居を移すのが慣例だった。
そして秋の暮れまでそこで過ごし、冬になる前に城に戻る。
秋には幾つかの催事も控えており、それを取り仕切るのが夫人である彼女の役目であった。
「……万事順調とのこと、ようございましたわ」
「君にも助けられている。オルシーラ姫への歓待については、特に」
控えめに微笑む妻の顔を久しぶりに見ていると、奇妙な気持ちがした。
当主を継ぎ、結婚してからもう七年にもなる。
その直後に先代教主が殺され、使徒家の務めに忙殺される日々が続き、妻との時間も碌に取れなかった。
だが今は、夫婦水入らずの穏やかな時間が流れていた。
夫婦はゆっくりと廊下を進み、やがてある一点に差し掛かった。
そこは奥まった部屋と、外に少し突き出す形になった露台だった。
何の変哲もないそこを、だがレイグは素通りすることはなく、暫し足を止める。
その場所を見て、思い出したことがあったのだ。
銀の髪に青い瞳。現教主レイノスともまた違う、生きた神の如き圧倒的な威厳を放つその人が、かつての束の間ここで憩ったことがあった。
かつての南方遠征。
先代教主クローヴィス直々の指揮により、南部で抵抗を続けた異教徒たちが一斉に粛清された。
思い出すのは、彼がこの城に滞在した時のことだ。
当時のレイグは当主を継いだばかりであり、あらゆる意味で絶対に失態が許されない局面だった。
あの頃の気負いと緊張は今でも思い出せる。
その時、先代教主は聖者を連れていた。
聖者は今よりも格段に幼く、そして今と全く変わらぬ輝きを宿していた。
あの頃は今の装束ではない、独特で、古めかしく荘厳な装いをしていることが多かった。
全てクローヴィスの見立てであったと聞いている。
「……すっかり忘れていたが、そう言えばあの日……」
思い出すのは、クローヴィスが滞在していたある日の風景だ。
会議の刻限になってもかのひとが現れず、城の者が総出で探し回っていた。
そして、レイグはそこを見つけた。
城の中心部からやや離れたその場所には、小さな露台があり、そこに庭の月桂樹の枝が長く伸びていた。
いつからそこにいたのか、クローヴィスは無造作にその葉を毟り、輪を形作って月桂冠を作っていた。
どこで作り方を覚えたのか、長い指は淀みなく動き、すぐに職人芸のような美しい月桂冠が出来上がった。
『セラ』
聖者は、その直ぐ側の手摺に座っていた。
霞みそうなほど白い、長い袖と裾を豊かに広げて、全身に光を浴び、夢のように美しかった。
クローヴィスが呼ぶと、聖者はそこから降りてすぐに歩み寄る。
出来上がった冠を、彼は聖者の頭に被せた。
その瞬間、聖者のその装いが未完成であったことを思い知らされた。
鮮やかで瑞々しい月桂樹の葉は装束と完璧に調和して、さらなる神々しさを与える。
そこにあるのは神話の投影のような、あまりにも完璧な姿だった。
『――――……』
彼は聖者に、何かを囁きかけた。
その内容は聞こえなかった。
けれど、それを聞いた聖者の顔は、どうしてか。
酷く悲愴な、途方に暮れたもののように見えた。
暫くして、聖者から目を外したクローヴィスは、戸口にいたレイグに『ああ、いたのか』と呟く。
そして独り言のように続けた。
『……此度の遠征は成る。
だが、十年後もこの地が教団領として存続するかは貴様ら次第。
よくよく心得ておくが良い』
その時は、そんな危機は訪れないと思っていた。
クローヴィスは教団における完全にして絶対の守護神だったのだから。
彼は病も怪我もなく、十年後も健在であろうと思っていた。
まさか、それから五年もせず殺されるなど、思いもしなかったのだ。
何故、こんなことを思い出したのだろう。
困惑していると、ヘレナが怪訝そうにそっと振り返る。
「あなた、どうなさいました?」
「いや、何でもない。……もう戻るか。明日も早いだろうから」




