決裂
何年も前に教主を代替わりしてから、すっかり疎遠になり忘れていたが……思い返せば、幼い頃からそうだったようにも思う。
社交辞令的なところも、少なからずあるのだろうけれど。
それでも兄は常にエルクに優しかったし、気に掛ける言葉も何度も与えてくれた。
……かつてはそれを、胸の温もるような思いで受け止めていたのだ。
いつから、それを置き去りに、距離と畏怖ばかり感じるようになったのだろう。
「…………」
兄がどれほどの注意と熟慮を重ねて自分自身を律しているか、幼心にも伝わってきた。
兄が誰かと諍い合うところなど、本当に一度も見たことがない。
ただ……先程までの流れ、そして連鎖的に思い出してしまったその出来事、正確には伝聞に、エルクの胸は凍てつく。
通ってきた道を、そっと振り返った。
その先に、兄もまだいるはずだった。
『そのこと』について、面と向かって聞いたとしても、兄が答えることはないのだろう。
黙して嫡子に仕えるのみ。
僭越な振る舞いをしてはならない。
それはエルクが物心ついて最初に教えられたことだった。
兄にどんな事情があるとしても、彼にできることはただ、諾を返して頭を下げるだけなのだ。
でも本当に、それで良いのだろうか。
まして、先程の指令を思えば。
「…………聖者様に、僕が……」
不思議な感じがした。
聖者が先代教主に連れられてこのシルバエルに訪れてから、早いものでもう十年が経とうとしている。
けれど今まで、大して面識を持つこともなかった。
それでも彼は、かつてのことを、朧気な記憶を辿って思い出す。
数少ない、昔の聖者の記憶を辿る。
昔、エルクが聖者と会った数少ない記憶。
決まってその傍にいたのは兄だった。
あの頃兄は聖者と近しかった。
先代の教主の意向で、年が近かったこともあり、兄はよく聖者の世話をしていたのだ。
本当に始めの頃、教団に馴染めない聖者に根気強く付き合って、ここの言葉や流儀を教えていた。
それは座所の常識だったし、エルクも当然耳にしていた。
二人でいるところに遭遇することも、遠目に見かけることも時折あった。
知る限り兄は聖者を気にかけ、導いていた。
聖者もそんな兄に気を許し、頼っているように見えた。
……悪い関係には、見えなかったのだ。
けれど。
「――――…………」
季節は初夏にも関わらず、冷たいものを感じて、日差しの中だというのに体が小さく震えた。
今でも信じられないのだ。
記憶にある限り常に寛大で柔和で穏やかで、何より完璧であったあの兄が、『そんなこと』をしようとしたというのが。
けれど実際に、それきり兄と聖者が二人でいるところを見ることはなくなった。
エルクは実際にその場に居合わせたわけではなく、確かなことは何も知らないが……間違いなく、決裂はあったのだろう。
「……僕は、どうすれば……」
兄はきっと聖者を嫌っているのだと、思う。
分かっている事柄からは、そうとしか考えられない。
細かい機微などは他所から伺い知れることではないが、もしかしたら親しげにしていた頃から、不和の芽は育っていたのかも知れない。
そして……そして、その時、あの兄が自制を忘れるほどに許しがたい何かが起きたのだろう。
腹違いとは言え、その弟である自分は、聖者の前でどう振る舞うべきなのだろうか。
その答えが中々出ない。




