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幻の画

 月の暮れが近づいている。

ここ数日、いつにもまして周りは慌ただしかった。

その日エルクは、兄である教主から呼び出しを受けていた。

定刻通りに指定の場所に赴き、侍従たちからの検査を経た上で、彼は壮麗な大扉をくぐる。


「……お呼びでしょうか、猊下」

「ええ、どうぞ入って下さい」


 扉の先に広がっていたのは、縦に長い長方形の形をした間だった。

毛足の長い絨毯が敷かれた道、その両側には何枚もの聖画が展示されている。

執務室とも、応接間ともどこか違う、厳粛な趣があった。そこで待っていた兄は、こちらに穏やかな目を向けた。


 戸口で挨拶をし、改めて許しを得てから兄の元へ歩み寄る。

一つの絵画の真正面にいた兄は、数歩移動して場所を開けてくれた。

恐縮しながら斜め後ろ辺りに向かい、正面の絵画が目に入る。


 そこに掛けられていたのは、天井まで届きそうな巨大な画だった。

描かれているのは、大剣を振るって魔獣を倒す騎士の図だ。

魔獣は人の邪心を表す表象で……鎧の意匠やや表情から見るに、題材となっているのはカドラスだろう。

そこまで見て取って、近寄ったエルクは足を止めた。


「この筆致……ガルシラス、ですか?」


「ええ、良く分かりましたね。何でも最新作だそうです。

……高齢となって尚意欲盛んなようで、喜ばしいことです。

ウィザールもきっと喜んでいることでしょうね」


 元々芸術関連は教養の必須項目である。

エルクも個人的に絵が好きであるので、興味を持って学んでいた。

小さく兄に礼をしてから改めて、高々と飾られたそれに見入る。


ガルシラスとは高い技術と、それに裏打ちされた装飾性で知られるベルンフォードお抱えの画家である。

使徒家の分家筋に生まれた彼は、若い頃から何十年と絵筆を取り続け、教団の芸術文化を牽引してきた存在だった。

そんな彼だが、最も知られるのは彼が手掛けた名画ではなく、聖者に関するある逸話だ。

「幻の画」と呼ばれるそれは、かつて聖者を前に試みて、そして遂に描けなかった名画だった。


 地上に降臨した天の使者だ。

己の手で描き出したいと望む画家は後を絶たなかった。

聖者側の問題もあってそれは難航したが、何とかそこに漕ぎ着けたのがガルシラスだった。

ベルンフォードの後押しもあったらしい。


 だが、いざ聖者を前にするとガルシラスの手は止まった。

彼には、どうしてもその美の片鱗すら描き出すことができなかったのだ。

どれほど描いても実際の聖者に近づかず、終いにはあまりの不出来さに耐えきれず、彼は己の作を破り捨ててしまったらしい。


 このことはガルシラスを打ちのめした。

一時は断筆まで表明した彼に、出資者であり友人でもあるウィザールはこう言い聞かせたそうだ。


『恥じる必要はない。寧ろ誇るべきだ。

聖者様を前に筆の限界を悟ったことで、君はその審美眼が真であることを証明したのだから。

描くにも描けぬその肖像を抱き続け、描き続けるべきである。

僅かでもその芸術が高みに上った時、そこには確かに聖者様の御光が宿っておられるのだから』


 それからというもの、ガルシラスの絵は更に深みを増したと評価されている。

気力を取り戻した老画家はますます意気軒昂に、精力的に画業に励むようになったらしい。

いつか聞いたそんな話を思い返しながら絵を眺めていたエルクはふと気づいた。


 気付かなかった。この絵は真正面から見た時だけ、背景部分に巨大な天秤が浮き上がる意匠になっている。

彼の知らない、何かしらの技法が使われているらしい。

一体どうなっているのだろう。密かに胸が弾むのを感じた。


「……気になりますか?そう言えば、絵画が好きだと以前言っていましたね」


「え、……い、いえ!滅相もございません、失礼致しました……!」


 ……いや、何をしているのだ。よりにもよって兄の前で。

我に返ったエルクは大急ぎで思考を切り替えた。

暢気に絵画鑑賞などしている場合ではない。

立て直さなければいけないと、内心慌てに慌てながら、半ば無理矢理絵画から意識を切り離す。

その間も隣で静かに佇んでいた兄に、エルクはやがて緊張しながら切り出した。


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