鼠を猫が捉え、猫を鳥が捉える
その扉の外、誰もいない壁の隙間で一人の男が身を低くして壁際に佇んでいた。
壁に施された装飾、その僅かな隙間から、少しだが中の声が聞こえてくる。
その内容を傍聴し、ある相手に報告するのが彼の密かな務めであった。
前置きが終わり、話はいよいよ佳境に入るようだ。
男は一言も聞き落とすまいと神経を張り詰める。扉の向こうに集中して耳をそばだて、僅かに周辺への警戒が緩んだ、その瞬間だった。
「いけないね」
首の後ろに、ちくりと痛みが走った。
そこから冷たいものが流し込まれる感覚がする。
意識が霞んでいく。最後にまた背後から、冷たい吐息が囁きかけた。
「よく聞こえたかな。……兄さんたちの話に、そんなに興味があったの?」
「………………っ……」
答えることができない。体が思うように動かないこともある。
だがそれとともに、彼は何か酷く、得体の知れない恐怖を感じていた。
盗み聞きに集中していたとは言え……全く気配も感じさせずここまで接近された、それ自体が手練れと言って良い彼には衝撃的なことだった。
気配は感じなかった――それどころか、今も、気配はない。
それなのに、声だけが聞こえてくる。
また「差し向けたのは誰?」と聞こえてきた。
「狐?蛇?鷹?鬣犬?羊?……それとも、もっと他の誰か?
まあでも、何でもいいことかな……だってあんまり変わらないし」
きり、と、針のようなものが更に深く差し込まれ、首の後ろが一層冷たくなる。
段々意識があやふやになっていく。
気力を総動員して抗っても、時間稼ぎにしかならなかった。
最後に聞こえたのも、酷く淡々とした声だった。
「鼠は駆除しないと。兄さんのために。一宿一飯の恩ってやつ?」
一分後。崩れ落ちた不審者を前に、ニアは少し頭を悩ませた。
「……どうしようかな、これ」
このまま放置するわけにも行かないので、取り敢えず不審者を引き摺って廊下を歩く。
角を曲がり、廊下を抜けた辺りに、意識を失った不審者の体を適当に捨てようとした時だ。
ニアはいきなり、自分の足が浮き上がるのを感じた。
何者かに後ろ襟を掴まれ、吊り上げられたのだ。
「――鼠を猫が捉え、猫を鳥が捉える。
ふふふ、自然界の掟だ。久しぶりだなあ、猫ちゃん」
聞き覚えのある声だった。それを認識するより先に、
「――――!!」
上着裏から小刀を取り出し、すぐさま振り抜いた。
背後に向けて一閃させた小刀が、何か固いものに弾かれる。
同時に勢いよく前方に放り出されたニアは空中で反転し、背後の相手に向き合う形で着地した。
「く、ふふふ、ふ…………」
そこにいたのは、一目でそれと分かる上等な身なりの男だった。
暗い色味の長い外套を、袖を通さず羽織っている。
その下に着ている上着も黒に近い深い茶色だ。
二重の影に沈んだ白いシャツが、銀の飾釦を光らせて浮き上がる。
一見暗く簡素な装いであるが、それだけに生地の上質さと、随所に施された装飾の輝きが際立っていた。
手袋に包まれた片方の手は扇を携え、もう片方は外套の中に隠れてよく見えない。
彼に背後から掴み上げられたのだと、遅れて状況への理解が追いつく。
装いも、そして何故か髪の色も変わっているが、その面差しと赤い瞳には見覚えがあった。
上質な象牙を思わせる、透き通るような肌。
眠気に襲われた子どものように、茫洋と、無邪気で、どこか傲然と底知れないものを秘めた――見る度、その眼光はどうしてか、ニアに猛禽のそれを思わせるのだ。
「……こんな風に会えるとは思わなんだ。
心ゆくまで再会の喜びを語りたいところだが……用もなく来たわけではないのでな。
一先ずは、ギル坊のところに案内してくれるか。猫ちゃん」
声は楽しげに、顔だけは恬淡とした無表情で。バルタザールは、笑みを含んだ声でそう宣ったのだった。




