鬼気
リシカから然程離れていない、つまり逃げ場のない位置に座りながら、ソリスは背中を止めどなく汗が伝うのを感じていた。
今すぐここから逃げ出したい。
屋敷に残してきた愛猫の姿を現実逃避気味に思い出す。ああ、君に会いたい。
今日の席には教主の叔母ウルレアや、最近領地から入洛してきたウィリスも来ており、リシカと彼の中間辺りに座っていた。
ワーレン家、ベルンフォード家からの見届人として来ているのだろう。
他にも使徒家関連で、見覚えのある面々がちらほら見受けられた。
ウルレアと目が合うと、安心させるようにふわりと微笑みかけられる。
それに暖かい陽だまりに包まれたような気分になり、ソリスは少しだけ緊張が緩んだ。
ウィリスはウィリスで、成り行きを案じるように盛んに目線を配っている。
危うすぎる雲行きに眉根は曇り、その顔にいつもの快活さはなかった。
リシカは折に触れて令嬢への追及を仕掛け、長老が美辞麗句、巧言令色の限りを尽くして矛先を逸らす。
暫くはその繰り返しであった。
その間ずっと、長老とやり取りしながらも彼女の凍てついた目は、ただユリアだけに注がれていたのである。
そして息詰まる時間が一段落し、一旦茶器を入れ替えることになった。
結局一口も飲めなかったお茶が、ソリスの前から下げられていく。
一糸乱れぬ動きの使用人たちは、音もなく美しい仕草で、茶器ごと茶を入れ替えた。
緊張が祟ってか強烈な喉の乾きを感じ、そろりと手を伸ばす。
「……当家で謹製しました、薔薇茶ですわ。
どうぞお召し上がり下さいませ。
……時にユリア様、ご存知かしら。
かつてこの家にいた卑しい女が、最後に口にしたものがこれだったのだそうです」
ソリスは危うく噎せ返りそうになった。
ただでさえ緊迫していた空気が一気に殺気立ち、辺りが呼吸も憚られるほどの重い空間と化す。
それをものともせず、リシカは独白を続ける。
その声は明らかな狂気を孕んでいた。
その裏に膨れ上がるそれは、殺気と言って良いほどのものだ。
「…………リゼルドを、私の愛しい子を、私の血を、命の全てを。
私の命が続く限り、僅かな危険も見落とすことはありません。
あの子を守るため、私がこれまでに何をしてきたか――まさかご存じないとは仰りませんよね?」
途端に、誰もが息を詰めた。
言わんとする意味を理解できない者はここにはいない。
物理的な圧力すら孕んだようなリシカの声に、かつての忌むべき事件を連想しない者もいなかった。
周囲の聴衆まで全てが緊張に身を強張らせ、リシカの一挙一動に神経を尖らせる。
僅かでも動けば寸断されそうな空気に、長老ですら束の間二の句を失った。
場が冷え切った、その頃合いでリシカは優雅な仕草で茶器にスプーンを差し込み、くるりと回す。
最早彼女の独擅場であり、その言葉を邪魔できるものはいなかった。
「お分かりかしら?
私はあの子を守ってくれる方を望んでいるのです。
そうでなければ何のための妻か、女主人か――――まさか使徒家の妻の務めが、きらびやかに装い飾られ持て囃されるだけとはお思いでないでしょうね?
妾ならばそれも通じましょうが、妻は唯一の伴侶として、その生涯に渡り当主を支え、家の舵を取り、重荷を分かつ者。
その双肩には家の未来がかかっているのです」
「妾」と妙にゆっくりと言ったその言葉は、気の所為だと思いたいが「愛玩動物」という含みの響きを多分に感じさせた。
優しく流麗な声音が、徐々に刃の鋭さを帯びていく。
激しい炎を思わせる、壮絶なほどの威圧感だった。
体にかかる重力が、一時的に増したような感覚すらある。
「その美しい御手と、小さな御足で、この家を脅かす全てを根絶やしにできると仰るのなら――どうかそのお覚悟を、この私に分かるよう示して下さらないかしら?」
リシカは優雅に、あくまでも優雅に手を持ち上げる。
目の高さで止まったその指先は、小さなスプーンを摘んでいた。
力の抜けた指からそれは滑り落ち、辺りに高く澄んだ音を響かせた。
「あら、不調法を。失礼致しました。
最近、手元が覚束ないもので」
スプーンが落ちてから数秒、誰も何も言えなかった。
凍りついたような空間の中で響いたその声は、涼しげで美しく、微塵の恥じらいも焦燥もなかった。
どこまでも悠然として、平坦ですらあったらしい。
そしてその目は至って冷ややかに、明確な値踏みの色を浮かべてユリアを見据えていた。
これはリシカが彼女に仕向けた試練だと、その場にいた誰もが瞬時に理解した。
未来の義母の失態をそのままにするのか、恥をかかせたままで済ませるのか、それが問われている。
何もしなければ使用人が片付けるだろうが、しかし――一瞬で注視の的になった令嬢は、蒼白な顔で唇を震わせていた。
こればかりは長老に代わってもらうわけにはいかない。
ここで量られているのは、未来の娘としての覚悟と機転であり、忍耐力と自己犠牲精神だ。
咄嗟の判断でリシカとともに恥をかき、より多くの泥を被ることができるか――つまりは、縁談の当事者としての心掛けなのだから。
結果令嬢は衆人環視の中、膝をついてスプーンを拾う羽目になった。
進み出た使用人が捧げた盆にそれを預け、どうにかその場は事なきを得たらしい。
優美に頭を下げ、穏やかに席に戻ったユリアに、リシカもそれ以上追撃はしなかった。
後は目立った珍事もなく、普通の茶会の流れに戻ったとのことだった。




