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バルタザール

「ふ、くく」


 聞き覚えのある笑い声が俄に辺りに響き、彼ははっと目を見開いた。

廊下の向こうにいつの間にか人影が出現している。

それは陽炎のように曖昧で、水面の影のように掴み所がない。

その手の中でゆっくりと閉じていく扇の影に息を呑んだ。

その間にもぱちぱち、と扇が半分以上閉じて、人影が見る間に立体感と厚みを増していく。

蜃気楼のようにしか見えなかった人影は、今や完全に実体を伴ったものとなっていた。

ぱちりと音を立て、完全に閉じられた扇。

それは何の変哲もないものに見えるが、それこそがつい先程まで闖入者の気配を薄めていたものの正体だ。


 所有者の気配を薄め、風景と同化させる。

それが術具――『緞帳』と呼ばれるものの真価だった。


 一際固い音を立てて扇が完全に閉じると同時に、目くらましの効果も失われる。

心を落ち着けてから、彼は人影に会釈する。

その時にはもう、使者の姿はどこへともなく消えていた。


「……兄さん。事前にお知らせ下されば、迎えを出しましたものを」


「何、それには及ばない。

確かにあれは総帥の使者だったがな、ここまでの俺の案内もしてくれたのだ。

親切とは良いものだ、全く、ふふ」


 どこかバルジールに似た、天鵞絨を思わせる耳触りの良い声だ。

それを発するのは無骨な外套を羽織った、背の高い男だった。

氷細工のような端正な造作の中、切れ長の赤い瞳が一際強い光を放つ。

長く伸ばした髪は緑に染められ、首の後ろで緩く一つにまとめられていた。

整った唇がにこりともしないまま、けれど酷く嬉しげに言葉を吐き出した。


「弟よ、息災で何よりだ。竜の被害や戦線については、その後進展しているか?」

「……はい、お陰様で怪我一つしていません。ようこそおいでくださいました、兄さん」


 向かい合う二人はどこか似通った面差しをしていた。

雰囲気はそれほど似ていないが、細かなところまで見れば血縁であることが分かる。

バルジールを弟と呼んだ彼の名は、バルタザールと言った。


「……して、兄さんは、何故こちらへ?ワリアンドの方は宜しいのですか?」

「まあ少しくらいはな。

……アルばーからなあ、遣いが来たのだ。

俺もこちらに一度来たいと思っていたので丁度良かった……

可愛い弟の元気な顔も見れたことだしな?」

「……アルデバラン兄さんのことですか」


 相変わらず、妙な呼称を使いたがる人である。

呆れると同時に、州都を治めている兄のことを思い出した。

しかし、大分長いこと会っておらず、その面影は曖昧なものだ。

……とにかく立ち話も何なので、取り敢えず近くの部屋に場所を移すことにした。


 城塞でもそれなりに格がある部屋は、幸いにも掃除人が整えたばかりだった。

長椅子に腰を落ち着け、茶杯を傾け、バルタザールは一息ついた。

そして最初に持ち出したのは、思いもかけない話題だった。


「竜が落ち、ブラスエガに平穏が戻ったのは喜ばしいが……

いや全く、ハーさんのことは残念だったなあ……」


 それは彼の兄、白竜の暴威によって落命した、ツェレガの前頭領の名前だ。

バルジールは瞑目した。死亡連絡以降、それを持ち出してきた相手は兄が初めてだ。

しかし彼のすることは変わらない。


「――兄の死因がどうあれ、何も変わりはしません。

どの道俺が彼を殺し、指輪を奪うはずだったのですから」


 バルタザールはそれに、「ああ、そうだな。貴下は正しい」と無表情のまま答える。

いつもと変わらぬ、内心を読ませない顔つきだった。

兄はいつもこうだ。言葉の上で喜んでも、悲しんでも、その表情は僅かも変わらない。

それに向けて、彼はぽつりと問いかけた。


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