サフォリアの元首
「クローヴィス=セラフ=ワーレンは言いました。
『神の智慧、神の愛、限りなく地に注がるるべし。疑うことなく目を開け。さすれば道は現れる』」
見晴らしの良い回廊だった。
顔に風を感じながら、マルセロは詠唱するような声でそれを紡いだ。
そして一時風に吹かれるままに佇み、やがて目を開く。
長い睫毛の奥から僅かに、切れ長の金の瞳が覗いた。
それは穏やかな顔つきにそぐわず、狼を思わせるような、妙に鋭い色味をしている。
「やれやれ。僕って神様に嫌われているんでしょうか?」
「……そのようなことはないでしょう。
歴史上、更に危うく追い詰められていた都市など幾らでもございます。
我らの場合、完全に孤立しているわけでもございませんし」
それに、武装した壮年の男が淡々と答える。
その肩には騎士の身分を意味する肩章が光っていた。
顔だけで振り返った元首は少し気怠そうな表情をしつつも、続きに耳を傾けた。
「大公様におかれましては、元首様をお気にかけていらっしゃると見受けますが。
昵懇な親書も届いたことですし、セネロスへのお呼びもかかっているのでしょう?」
「……はは、大公の加護なんて、いつまで保つことやら……」
ため息混じりに不遜なことを言い放っても、ここでは全ては風に流れて消えていく。
普段彼が人前で決して見せない姿だった。
風が吹き抜けていく。開放的な回廊の下で、現時点では穏やかな景色が広がっている。
頬杖をついたマルセロが目を向けた先は北――教団領の方角であった。
「……教団の誉れ高き教主様。
確か僕と同年代なんですよね。一度お話してみたい。
ですがまあ、さすがに縄を打たれて初対面はごめん被りたいので……
未来のためにもがんばりますか。気だるいけど」
「……それではお戻りになりますか。
執務も全て、すぐにも再開できるようされているでしょうから」
「ええ、分かっていますよ、へーレック。
……はあ、おちおち休みもできませんねえ」
休憩時間ももうおしまいだ。
最後に一度深呼吸してその場を離れる。
へーレックと呼ばれた騎士もそれに続いた。
慣れた足取りで廊下を進むと、この十年死蔵されていた元首のマントが翻った。
数時間前にマルセロは元首就任の儀を終えた。
と言っても、何かが変わるわけでもない。
これまでずっとこなしてきたことなのだ。
今日も今日とて彼は執務室で精励する。
「はあああああ……」
机につき、特大のため息を吐く。
腐っていても始まらないので書類を手元に引き寄せたが、それでもぶつくさとぼやく声は止まらない。
「戦も策略も大嫌いです。本当ついてないです。
やってらんない不運にも程がある。
何だって僕の代で、こんな荒波がやって来るんでしょうか。
平和な世はいずこ?
どいつもこいつも裏切ってきそうだし……
本当そういうの嫌ですよねえ」
それに周囲は顔を伏せて、聞こえない振りを決め込む。
一人だけ、へーレックがそれに顔を顰めて苦言を呈した。
この執務室でそれは、何年も前からよく見られる光景だった。
「恐れながら元首様、そのようなことを仰らない方が良いかと。
貴方様がそのように仰ったと漏れては、下が動揺します。
各々ができることをするしかないのです。
他の何が信じられないとしても、我らが裏切ることは有りえません」
「あははは、当然じゃないですか。
ここの皆には運命を共にしてもらいますよ。
たとえ嫌がられたってそうしてやります。
だって僕は今や元首ですし、僕が死ねばこの街は終わるんです。はーーーー全く!!」
紙束は尽きもせず、続々とやって来る。
それを捌きながら、関わりのある勢力との関係を整理していく。
元々ロスフィークとは戦争予定であったし、教団との話も無事まとまった。
だからって教団に命運全て委ねるのは博打が過ぎる。
教団には先祖と因縁のあるセヴレイル家がいる。
ただでさえ従属的な同盟の最中、仮に上手く取り入ったとしても、その後の道のりは決して楽ではないだろう。
大公家もここ最近の動向が不穏だ。
教団に取り入るために、いつサフォリアを売りつけるか知れたものではない。
つまり現在のサフォリアには、信頼に値する盟友など存在しないのだ。
様々な政略の糸が絡み合う中、その立場は極めて危うく繊細だった。
教団と大公家、どちらに深入りしても破滅の危険がある。
それを彼は痛感しており、だからこそ嘆く。
色んなところから使節が入れ代わり立ち代わりやって来るし、鉢合わせさせない調整だけでも一苦労だ。
落ち着いた日々が恋しくて仕方ない。
……落ち着いた日々なんてそもそもあったかどうかも怪しいけど。
黄昏れる暇もなく部屋には人が出入りし、やがて特に張り詰めた顔の侍従がやって来る。
「元首様、新たな使節が約束の地点にいらしたようです。
先日の件に引き続き、さらなるお話し合いを求めておりますが……」
「はいはい、構いませんよ。通して下さいね精々丁重に」
「それと……大公家と教団の使節もそうですが……別方面との話し合いも、以前指示なさいましたよね。
それは如何なさるおつもりですか。まさかここに招くわけにもいきますまい」
やって来た報告と相談に、マルセロは一度手を止めた。
顔を上げて「そうですね」と相槌を打つ。
薄い唇には仄かな笑みが浮かんでいた。
「……こんな時のための中立地帯です。
レドリアを使いましょう。結局は交渉術ですよ。
目に付く全てに売れるだけ媚を売りましょう。
相手の土地の石ころにだって媚びてやりましょう」
「元首様、ですがそれはあまりにも危険では……」
「危険?危険ねえ……
でも今危険でない場所なんてありますか?
これは必要事項であり、寧ろここで動かない方が危険でしょうよ。
その程度で死ぬような僕ならば、最初からこのサフォリアの命運は尽きていたのです。
そう思って諦めなさい」
とにかく今は、喫緊のことから片付けなくては。
優先順位は大切である。
放っておいても問題は増えていく一方なのだ。
彼は足を伸ばして勢いよく立ち上がり、待ち構えているだろう客のもとに向かう。
そうして部屋を出る時、止まって一瞬振り返った。
「それでは、行ってきます」




